R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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『逆潮と時雨も合点 島渡舟』、『昭和五十年三月 高島より土田に移転』 夏の終り、高島を望む丘にある団地にやって来た。高見と呼ばれるこの団地には、高島からの集団離島時、島民の方々が移り住まれたのだ。団地の片隅には一つの石碑が建てられていた。島民の菩提寺である明光寺の句であるという。
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『山村風景は僅かな時間で消えていった』 美しい山村風景は、そこに住む人々によって創られる。それは、そこに住む人々がいなくなった時、山村風景が消えていくことを意味するのだ。
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『奇跡の清流』四国の山中にそう呼ばれる渓谷がある。今では名の知られた渓谷で、この滝にも多くの観光客が訪れる。しかし、滝の先に集落があったことを知る人は殆どいない。人里から離れること15km。電気も電話も通じることはなかった。それでも昭和50年代まで、人の営みがあったという。
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『田丸集落まで辿り着けるのだろうか』徳島県道32号線沿いの"ひの字渓谷"展望所から田丸の方向を眺める。祖谷川からの比高は約100m。この険しい谷間を見た時、不安を覚えずにはいられなかった。ただ、今回は事前に"とある方"から田丸についての情報をお聞きしていた。行けるところまで行ってみよう。
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船着き場から島を見上げると、巨岩が積み重なっている。その間を縫うように階段が伸びていた。島の玄関がこの光景とは、何ともインパクトがある。階段が整備されたのは灯台建設の頃である。それ以前はどうやってここを登っていたのだろうか。振り返れば、小さな船着き場で数人の方が釣りに興じていた。
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『炭焼き又次郎』 炭焼が盛んだった地域に、京塚さまと呼ばれる神社があった。山の中にも関わらず、祭りにもなると出店が立ち並び、多くの人が訪れた。当時、周囲には田畑が広がる美しい里山風景があった。時は過ぎ、訪れる人はいなくなり、里山風景も消えてしまったが、民話は今も語り継がれている。
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等高線が密に書かれた険阻な地形。ここに人が住んでいた。たったそれだけのことだが、惹かれずにはいられない。
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奥三河の伝承に、花祭と呼ばれる霜月神楽がある。大入集落にも花祭が存在していた。しかし、大入から人がいなくなると共に花祭は途絶え、花祭祭具は東栄町の花祭会館に寄贈された。花祭の始まりには諸説ある。大入では、この地に隠れ住んだ花山天皇を偲び奉ることから始まったと伝承されていた。
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『大入集落』 花山天皇の隠れ里とも伝えられ、少なくとも千年以上の歴史を誇った。集落の始まりは判然としないが、花山天皇に関係する主従の二軒だったとも言われる。その後、分家、移住もあり、S.16年には七戸、約60人と記録される。戦後、急激に人口が流出し、S.35年に最後の一軒が転出した。
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対岸まで渡りきり一息ついた。見上げると、斜面上部まで植林地帯が続いている。田丸集落までは、この中を300mも登り返さないといけない。それ以前に、目の間に続く崖を登らないといけない。登れそうな場所を探して、木々を手がかりに崖を這い上がる。崖上には道筋があり、田丸橋の主塔へ繋がっていた。
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聞き取り会は、団地の集会所で開かれた。団地取りまとめ役のNさんをはじめとして、多くの島民の方々、更に市役所のKさんが集まってくださった。聞き取り会では、高島での暮らし、出来事、島への想いなど、多岐に渡るお話を聞かせていただいた。(お聞きした内容については後のツイートに纏める)
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蒼い海と小さな島。島の分校が休校になってから12年。分校は再開されることなく廃校となった。今、島に住むのは4人。島の現状は、島のあちこちで感じ取ることができる。それでも、島民の方々はとても明るく、優しかった。この島にあったのは寂しさでも侘しさでもない。『小さくも美しい島の姿』だった
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祖谷川が増水すると戻れなくなる。長居せずに帰路に就いた。不安だらけの往路に比べ、余裕のある復路だった。ただ、慣れていても危ない道程であることに変わりはない。田丸の方々は、毎日のようにこの山道を行き来していた。田丸が無住化して月日が経ち、そのことを知る人はごく僅かになっている。
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ある日を境に人々が去った島。僅かな耕地のこの島では多くの人を養うことが難しく、長い間世帯数が変わることはなかったという。しかし、次第に時代に取り残され、人々は島を出ていくことを決断したのだ。離島から50年経ち、緑は島を飲みこんでいた。それでも人々の営みの跡は消せなかったようだ。
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酷道・険道のまとめを更新しました。旅行のお供に利用ください。 リンク先を参照願います。(PDFファイル:21.5MByte) drive.google.com/file/d/15aMSre…
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"ひの字渓谷"展望所に戻ってきた。紅葉時期とあって、多くの観光客が行き交う。その中で田丸集落を眺めていた。絶海の孤島、遥かな山奥、どんな場所であっても人は住む。人が住むからには始まりがある。田丸の始まりははっきりしない。村史には、喜多源内の直轄地とある。ただ、Rさんはこう仰るのだ。
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『一人になっても島を守る』 島民の結束力が強いことで知られていた島。災害をきっかけに島民は急激に減少し、ついに一人になった。それでも残る島民の方は、島の再生を目指して孤独な戦いを続けている。
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長い道程の先に集落があるという。しかし、そこあったのは、大量の土砂に呑み込まれた集落だった。それは、まるで集落の存在を隠すかのようであった。
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観光地も名勝も何も無い。それ故、この地区を訪れる人は少ない。深く険しい渓谷の奥には、穏やかな地形が広がっていた。そんな不思議な地区の住人数は8世帯10人。ここ20年で半減した。その住人も殆どが70歳以上だ。地区の未来は決して明るくないが、それでも山に残り、生活を営む方々がおられた。
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櫃島(ひつしま)は、萩市街地から約10km、一番近い有人島の大島から約1.5kmの位置にあり、萩市沖にある6つの島、いわゆる萩六島のうちの一つである。東京ドーム17個分の面積を有しており、島の周囲には断崖が続き、内陸には平坦地が広がっている。その形状は何とも不思議な形をしている。
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ひび割れた石碑。学び舎で旧友が再開することはもう無いだろう。お婆さんから学校の話を聞いたので、学校跡に行ってみた。雑草の生い茂る校庭。講堂と職員室が残るが、朽ちる過程に入りつつあった。多い時で約100人いた生徒は、現在0人。この地域は子供だけでなく、住人すらいなくなろうとしている。
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島民の方からは『学校以外の建物は残っていないのではないか』と聞いていた。しかし、木々の下に一軒の廃屋が現れた。建物は残っていたのだ。先に進むと、学校の校舎も現れた。一方で、完全に潰れた建物も次々と見つかった。この時は一時的に道を見失っていたこともあり、まずは灯台を目指した。
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つづら折りの山道が続く。ザレ気味で傾斜もきつい。それでも、先程の前田丘から祖谷川までの下りに比べると全然歩きやすい。登り始めて1時間経ち、周囲が明るくなってきた頃、対岸の方向へワイヤーが伸びていた。"とある方"のお話では、前田丘に野猿があったそうなので、その遺構かもしれない。
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そこに暮らしは残るのか。便利になった現代においても、たったそれだけのことが分からない。信州の山中にある集落に、人の姿を見かけることはなかった。
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『高島燈台』 空に聳える真っ白な灯台。S.41年初点。高島周辺は海の難所であり、灯台ができるまでは度々事故が起きていた。道路も重機も無い高島において、建設は概ね手作業であり、島民の方々もアルバイトで従事していた。島が無人化してからも、海上保安庁の方が定期的に保守されている。