R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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スレッドにします。 『無双連山』地理院地図を眺めていた時、かっこ良すぎる山名が目に留まった。更に、その山の麓には小さな集落があるではないか。人里からは遠く離れ、深い谷間に位置する集落は、まるで隠れ里のようだ。どのような集落か確かめるために川根本町の『小猿郷集落』へ行ってみた。
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『黒川集落(下黒川)』 植林帯を20分ほど登った頃、周囲に石垣が見えてきた。どうやら黒川集落(下黒川)に着いたようだ。黒川集落は2つの部落に分かれていて、下流の部落は下黒川、上流の部落は上黒川と言われる。現代の地図上から消えてしまったが、確かにここには集落があったのだ。
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『山峡の集落に日が昇る』 急な斜面に家屋が密集し、谷底には奇跡の清流と称される河川が流れる。耕作地は綺麗に手入れされ、集落背後の山の頂には神社が立つ。理想的な美しさを持つ山岳集落が四国山地にあった。
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この集落までの道は崩れていました。ご注意を。
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迎えの船で萩へ戻った。売却から50年後の尾島を確かめることはできた。しかし、もう一つの疑問である『何故、尾島は売却されたのか』は解決できていない。後日、情報を求めて様々な場所を訪ねたが、関係者にお会いすることはできず、書籍での調査となった。50年という年月はあまりにも重い。
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『黒川集落(上黒川)』 黒川道沿いにある三界地蔵と石灯籠。この先に上黒川はあった。上黒川も下黒川と同様に、薄暗い森の中に石垣と平場が続いている。ただ、下黒川と異なるのは、二軒の家屋が残っていることだ。もちろん、無人となって随分経つので、建物は相当傷んでいる。
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夜明けの尾島。釣り客に混じって尾島へやって来た。巨大な丸石を積み上げた港へ降り立つ。小さな島にしては立派な港だ。港から島を見渡す。青く美しい海とは対象的に、内陸部に見えるのは濃厚な藪、藪、藪……あまりの藪の激しさに少々怖気づくが、考えていても仕方がないので藪の中に入り込む。
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尾島が歴史に現れるのは元文5年で、9戸、47人とある。平家落人の伝承や、尼子家遺臣供養の念仏行もあるが、それ以前の記録は残っておらず、六島村の他島に比べて歴史が浅い。このことより、尾島での暮らしの始まりは他島より遅いと考えられ、始まりのきっかけが他島からの出耕作だったとも考えられる。
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桜の咲く頃、大入集落と山を一つ挟んだ東薗目地区を訪ねた。大入関係者であり、大入の本も出版されているOさん(S.3年生)からお話を伺えることになったのだ。50年近く大入のことを調べておられるOさんのお話は大変貴重なものだった。リンク先にお聞きした内容を纏めます。 drive.google.com/file/d/1js32eO…
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では、黒川集落が無住化したのはいつだろうか。今回、石鎚村では、住人の方に出会うことはなかった。周辺の集落で聞き込みを行い、大保木村(現・西条市)東之川出身の方にお話を伺うことができた。それによると、『はっきりとは覚えていないが、S.50年代だったよ』とのことだった。(画像は東之川)
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遠い昔、村の中心だったという集落。その面影はどこにも無い。集落内に人影はなく、鶏だけが鳴き続けていた。次のスレッドは、山の上にある集落になります。今から準備を始めますので、7月初旬~中旬にツイート予定です。
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※大入集落への山道は、荒廃しているため大変危険です。また、熊の目撃情報が多く、道のりの大部分が私有地のため、通行が禁止されています。
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Rさんは、対岸の眠谷からご先祖様のお参りをされている。地図にあった田丸集落は、その姿を消してしまった。しかし、落人から始まった歴史、そして人の営みがあった事実が消えることはない。追手から逃れた落人が隠れ住んだ田丸は、今、再び隠れ里となって、祖谷の山中に残り続けているのだ。
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田丸集落は三方向を急斜面に囲まれ、集落に至る道は実質一本という、まさに周囲から孤立した集落であった。これだけの場所でありながら、多い時で19世帯90人もの人口があった。ライフラインの整備は困難であり、電気が来ることは無かった。そのような事情もあり、S.50年頃に無住化した。
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『地図に道が書かれていても、そこに道があるとは限らない』
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地図に示す急斜面に、人の暮らしがあると言われても俄に信じ難い。そのような場所でも人の暮らしがある四国山地の奥深さ。かつては1300人いた住人が、今では1人になった村の集落。昭和の終わりに集落は無住となった。それでも信仰の跡はいつまでも集落に残る。
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この山道は"黒川道"と呼ばれる。つづら折れで一気に高度を上げた後は、緩い斜度で森の中を登っていく。ところどころに舗装が残り、集落への重要な道であったことが伺い知れた。石鎚登山ロープウェイができる前は、石槌山への表参道として、並行する今宮道と共に石槌山へのメインルートでもあった。
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『尾島の墓標』 墓標のように太い柱が立っていた。太さからして、葉タバコ乾燥庫のようだ。碍子や電線など、暮らしの跡も散らばる。尾島の戸数は、多い時で10戸。S.29年に自家発電が始まり、S.41年に海底経由の給電開始、共同電話もS.36年に開通した。ただ、定期船が来ることは一度もなかったという。
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『残された太鼓』 飯田線の"とある"駅から急な斜面を登ること30分。知る人の無い小さな集落がある。進む過疎化により、地域にあった集落の多くは無人化した。この集落も例外ではなかった。ぽつりぽつりと立つ家屋は、ただ朽ちていくの待つ。集落が森に消えゆく中で、神社は当時の面影を残していた。
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まずは学校跡へ向かった。昔の航空写真から、尾島の学校は港近くにあると分かっていた。確かに、港から校舎の屋根が見える。距離にして僅か100mだが、濃い藪が行く手を塞ぐ。藪を掻き分けて進むが、校舎が近づくにつれて藪の密度が濃くなる。何度も藪に押し返されながら前進を続ける。
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無人の集落をモノレールが行く。四国山地の『モノレール村』こと、旧・一宇村。40年前の航空写真にあった多くの家屋と耕作地は、その殆どが姿を消していた。村内にある32集落のうち、19集落はいずれ無住化するという。この集落は一足先に消えていたのだ。
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かつて、一つの村だったこの地域の人口減少率は99.99%。立ち並んでいた家屋、広がっていた耕作地は、森の中に姿を消した。多くの参拝客と豊富な山の恵は、村に賑わいをもたらした。しかし、今、この村は名実ともに消えようとしていた。
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『巨石』 物凄い大斜面が目の前に広がる。大斜面にあった集落へ向かった。集落の場所が分からず山の中を彷徨っていると、巨石が現れた。巨石前には石段と祠跡があり、平場もある。祀られていたことは間違いないが、後で周辺地区で聞き込みしても、皆さん知らないと言う。この巨石は一体何なんだろう🤔
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続いて、家屋が立ち並んでいた辺りに向かった。しかし、家屋は見当たらない。尾島が無人化したのはS.47年10月。全島民の離島時、家屋は壊されることなく、そのままで残された。離島から50年経ち、全てが朽ち果てたのだろうか。半ば諦めつつ藪の中を進む。不意に藪が開け、何かが見えるではないか。
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西日本最高峰の石鎚山に代表される石鎚山脈。中央構造線沿いに石鎚断層崖を形成し、平野部から見たその姿は屏風のようだ。石鎚村はこの屏風の麓にあった。村に平地は無く、ほぼ全域が加茂川の形成した深い谷間に位置した。そして、村内にある集落の殆どがいわゆる"山岳集落"であった。