R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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この『河口集落』は石鎚村の入口でもある。元来、石鎚村は農林業が主体で、石槌山への登山口としても賑わっていた。しかし、農林業の衰退、交通機関の発達による参拝ルートの変化により村は衰退した。2014年に、この先の中村集落に住んでおられた老夫婦が山を降り、石鎚村の住人はいよいよ一人になった
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黒川集落からの帰り道、石鎚村のいくつかの集落に寄ってみた。当然、どの集落にも人の気配はなく、残された家屋は荒れるに任されていた。唯一、この地域に最後まで住んでおられた中村集落だけは、今も人の手が入っているようであった。現在、石鎚村に残る住人は一人だけだ。
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以上で田丸集落についてのツイートは終わりです。田丸訪問にあたり、大変お世話になりましたRさん、問い合わせさせていただいたNさん、そしてお話を伺った西祖谷山村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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R157は本日開通しました。岐阜県~福井県の通行が可能です。また、R471・472楢峠は6/3開通予定です。ただし、状況によっては変わるかもしれません。(画像は過去のR157です)
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30年後の人口増減率。全国各地で人口は大幅に減少し、人口希薄地帯からは人がいなくなる。増加するのは都市部でもごく一部の地域だけだ。
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僅かな面積の尾島では、多くの人を養うことはできない。一方で、葉タバコ等の畑作は多大な労力を要するため、子供たちも労力の一端を担っていた。その子供たちが島を出ていったのだ。労働力は減少し、生産量も減った。島民たちは出稼ぎに出たが、出稼ぎによる人口流出は島の共同作業を困難にした。
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『大歳宮』 社殿は倒壊し、2つの鳥居は大きく傾いていた。地図に描かれた神社記号の場所には、確かに神社があった。島が売却された後、神社を訪れる人は皆無だったのか、酷い荒れ具合だ。御神体は島民とともに本土に渡ったのだろうか。神社の存在が人々から忘れ去られるのも、そう遠くなさそうだ。
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高島は島根県益田市の沖合約12kmにある。周囲は4km、島は断崖絶壁で囲まれ、平地は全く存在しない。それ故、港と言えるものはなく、小さな船着き場だけが存在する。有人だった当時、アクセスの困難さは国内有人離島の中でもトップクラスであった。『大海原の孤島』と呼ぶにふさわしい島である。
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石鎚村に通じる愛媛r12(西条久万線)で加茂川上流へ向かう。加茂川沿いにはいくつもの集落があるが、そのいずれもで過疎化が進んでいる。しばらく走ると、『河口集落』で道は二手に分かれる。道なりに進めば石鎚登山ロープウェイへ至るが、ここは右手の愛媛r142(石鎚伊予小松停車場線)へと進む。
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『取り残された神輿』 立派な神輿が埃を被る。今、この島に住む人はいない。島が無人になるとどうなるのか。4枚の画像で物語る。
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石鎚山へ至る参道沿いの集落として賑わった黒川集落は、下黒川、上黒川合わせて多い時で約30軒の家屋があり、その殆どが参拝者相手の季節宿(民宿)を営んでいた。今も残るのは二軒の家屋のみだが、共に当時の賑わいを感じさせる立派な建物だ。この二軒も季節宿を営んでいたのだろうか。
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『何故ここに建物があるのか』 地理院地図に建物の記号が一つ描かれている。たったそれだけのことだが、こんな立地では気になって仕方がない。
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『くぐれない鳥居』 大部分がダムに沈み、主要産業であった鉱山が消えた地域。今、地域に残る人は、ほんの僅かだ。その地域で山の中を彷徨うこと2時間。そこに現れたのは、人々の記憶から消えた神社だった。
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航空写真では分からなかったが、木々の下には石垣がどこまでも続いていた。その様は城壁を想像させる。ただ、下黒川に残る家屋は無く、全て倒壊していた。下黒川の先には、黒川道沿いにS.4年まで分校があったが、痕跡を探し出すことはできなかった。
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地図で見つけた小さな島。昔はこの島に人が住んでいたと知った時、『ここに人が住んでいたのか』という驚きと、『今はどうなっているのか』という疑問が湧いてきたのだ。しかし、ネット上に"現在の高島に関する情報"は殆ど見られない。高島はどうなっているのだろうか。実際に行って確かめるしかない。
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『小さな小さな猫の島』 60匹を超える猫達が気ままに過ごす。漁業で栄え、かつては300人あった人口も、現在では13人。定期船もなければ、観光スポット的な場所もない。島には静かな時間が流れ、時折猫の鳴き声が響く。何も無い島という人もいるけども、この島には『純粋な島の魅力』が溢れているのだ。
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『水とともにある暮らし』 水の都とも言われる都市に、小さな島がある。中洲のようにも見えるが、人の暮らしがある立派な島だ。未だに橋はなく、島民の方は自家用船で行き来する。古くは江戸時代から続く暮らしが、今もこの島には残る。
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尾島での暮らしは、苦労の連続であった。特に、港整備による多額の費用負担、自家発電の負担など、小さな離島という環境面における島民の負担は重かった。それでも島民たちは協力して困難を乗り越えてきた。しかし、乗り越えられない困難があった。寄宿舎創設により、子供たちが島を出ていったことだ。
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田丸橋が落ちていることは知っていた。橋がなければ渡河するしかない。田丸集落に行けるか否かは、祖谷川の水量次第だ。更にマムシも多いという。晩秋を狙ったのはこのためだった。幸いにも水量は少なく、20cm程度と浅い。これは行けると、慎重に渡河する。川底は苔で滑りやすく、水がとても冷たい。
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石鎚村は、愛媛県の東予地方、石鎚山の麓にあった。元々は千足山村と呼び、S.26になって『石鎚村』へと改称されたのだ。その後も、S.30に小松町に合併され、更にはH.16年に西条市に合併されて今に至っている。
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尾島は、萩市街地の北西約10kmに浮かぶ、面積0.34平方kmの小さな島である。島は溶岩台地から成り、その姿は平べったく、南側の砂浜を除いて周囲を海蝕崖に囲まれる。元々は、尾島、羽島、肥島、大島、櫃島、相島の6つの島で六島村を構成していたが、S.30年に萩市に合併され、現在は萩市に属している。
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『石造物が溢れる集落』 よほど信仰深い集落だったのだろうか。多くの石造物が立つ集落。画像以外にも数多くの石造物が立つ。しかも、石造物はどれも立派な造りだ。何故これほどまでに石造物を建てるのか。未だに手掛かりを掴めずにいる。
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探しものは身近にあることが多い。しかし、それに気づけないことも多々ある。七百年を超える歴史を持つ集落。その存在を確かめるために集落に向かった。しかし、目的のものは見つからなかった。が、写真で見ると写っていた……遅くなりましたがスレッドの準備が整いました。日曜日にツイートします。
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上黒川にある"地すべり危険箇所の看板"には、神社が描かれていた。早速、神社へ向かってみる。最初こそ分かりやすかった神社への道は、次第に怪しくなってきた。道を間違ったかな…そう思い始めた頃、鳥居が見えてきた。
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四国山地にある航空写真に写らない集落。木々の下に隠れるように存在する。神社、祠、山道と、その立派さには驚かされるが、この集落を知る人はごく僅かだ。