R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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標識で富山へ誘導しつつも、富山県へ通り抜けできませんと否定する看板。酷道471・472号の楢峠の冬季閉鎖が解除されました。『これでも天下の国道か?』のインパクトで言えば、日本一ではないでしょうか。楽しくも、危ない峠道です。運転には十分お気をつけください。
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『住人数0人』ダート林道の先にある集落。航空写真では緑に染まる。深山に佇む集落は、かつて、林業と共に大いに賑わった。しかし、林業の終焉は、集落の終わりを意味していた。今、常住する人はいなくなり、僅かな人が通い続ける。四国山地に見られる風景の一つである。
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『田丸は、平家の落人さんの集落です。なので、祖谷温泉がある祖谷街道からは家や人の営みは見えない作りになっていたそうです。敵に見つかれば襲撃されますし、だからこその、あの田丸橋なのです』
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色々調べていくうちに、その集落は『黒川集落』と呼び、既に住人がいないこと、そしてこの地域にあった『石鎚村』も、住民が僅か1人になっていることが分かった。現在の石鎚村、そして黒川集落はどうなっているのだろうか。今回は、石鎚村にあった集落のうちで、『黒川集落』へ行ってみることにした。
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山の中へと車を走らせる。次々と現れる集落。しかし、そのいずれもが無住の集落だ。学校も、郵便局も、商店も、全てが無用の長物と化していた。一時間ほど走った頃、ようやく人の気配のする集落に辿り着いた。それでも住む人はごく僅かだ。過疎化の進む地域は多いが、これほど酷い地域はなかなか無い。
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長い間、集落を眺め続けてきたお地蔵様。誰よりも集落のことを知っている。兵庫県の山間部。住民基本台帳では1世帯2人の集落。 多くの墓標が、かつての賑やかさを物語る。今、誰にも知られることなく、集落は終わりを告げようとしている。
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四国山間部の生活道路。四国山間部と紀伊半島は、標高が低いからといって舐めてかかると痛い目を見る。
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『四国4県のいいところ』 聳える山々も、美しい流れの川も、綺麗に広がる海も、全ての要素が四国各県に揃っているところだ。
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『山中にあった不夜城』 「発電機でできる電気が使いきれないので、村中に電球を付けまわり夜中でも延々と照らした結果、不夜城と呼ばれた」という話が印象に残る集落。気象環境が厳しく、高度成長期に離村。今、不夜城の姿は影も形もない。
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石川県の国道8号に、遠赤外線装置を使った融雪装置が試験的に設置された。ナトリウムランプの照明に見えて、これでも融雪装置だったりする。確かに、照射部分の雪は溶けて効果がありそうだ。
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山の中にポツンとある集落。そこにはどんな風景があるのだろうか。たったそれだけのことだけど、旅のきっかけには十分なのだ。
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『一軒家の残る集落』 富山県の或る集落を2年ぶりに訪れた。美しい集落の姿は、2年前のままであった。常住する人はいないが、今も元住人の方が通われる。応仁2年、祖先が飛騨国高原郷から移住し、この地を拓いた。集落は一軒だけになってしまったが、550年とも言われる歴史は途絶えることなく続く。
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『臥蛇島(がじゃじま)』 絶海の孤島。その言葉はこの島のためにある。島の地形、環境はあまりにも厳しい。それでも、長年暮らし続けてきた人々がいたのだ。S.45年集団離島。百島さん@momoshima_junツイートにあるリンク先のPDF資料(十島村作成)は必見です。この資料は本当に素晴らしい。
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"40年前の航空写真にあったいくつもの家屋"は全て朽ち果てていた。多くの参拝客で賑わっていた『黒川集落』。S.43年の石鎚登山ロープウェイ開通により黒川道を通る参拝客は激減、それをきっかけにして集落住人は次々に山を降り、ついには集落から人の姿は消えてしまったのだ。
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どこまでも続くお墓。この島に多くの人が住んでいたことの証だ。現在の住人は13人。その殆どが70歳以上。緑は生い茂り、大きく立派な家々を呑み込む。それでも、この島に悲壮感はない。明るく、優しく、素晴らしい島だった。
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山上にある集落の小さな縁日。この日ばかりは集落に賑わいが戻る。住む人はいなくなったが、今も続けられる縁日。一度失われると、取り戻すのは容易ではない。続けていくことが大切なのかもしれない。
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土佐の山あいにある小さな旅館。建屋の一部は築100年を超え、風呂は薪で沸かす。女将さんは現在90歳。旅館を1人で切り盛りする。昔、林業が盛んだった地域で、旅館は行商人で賑わったという。女将さんが旅館に携わってから65年。時代とともに町は変わった。それでも女将さんは、今日もお客を迎え続ける
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様々な想いの中、島民は尾島を売却し、本土に移住することを決めた。島民は、島の市・県による買収、買い手の斡旋などを市に要望し、S.47年10月全島民が島を出た。その後、島は入札を経て、7600万円で落札された。尾島は現在も開発されていない。落札した業者によれば、今後も開発予定はないという。
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海からほど近い集落。時代の変化に取り残された集落から人は去っていった。離村しても、人の手が入れば集落の姿は残る。それは、人の手が入らなくなった時、集落が消えていくということでもある。今、残っていた家屋は次々と倒壊している。そんな集落の終焉をお地蔵様は静かに眺め続けていた。
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『妙見神社』 倒木に直撃されたのか、神社は無残な姿になっていた。ささやかなお供えをして手を合わせた。これは、"とある方"からのお願いだった。田丸のご先祖様は、隠れ里とも言えるような土地で長い間、力強く暮らしてきた。住む人はいなくなったが、今も田丸の地を想う方々がおられるのだ。
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西祖谷山村の田丸(たまろ)集落。地理院地図を見た時、立地の凄まじさに驚いた。集落は深い谷間に囲まれ、背後に国見山が聳える。集落へ至る道は、祖谷川左岸の廃道か、対岸の祖谷街道から100m下って300m登る山道しかない。しかも、ネット上にあるのは僅かな情報だ。田丸はどうなっているだろうか。
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『田丸橋』 長さ70m、高さ13.9m。T.14年に四国水力電気によって架けられた。田丸集落へ至る主要な吊橋であったが、踏み板は落ち、対岸に渡ることができない。橋の袂には仏様が置かれていた。被せられた帽子はすっかり苔生している。いつしか、ここに仏様があったことも忘れ去られるのだろう。
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遙か山奥の集落へと向かう古道。今、この道を歩く人はいない。しかし、多くの人々が歩んだ道は、その長い歴史とともに、簡単に消えることはない。
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土佐と銅山川の文化が混ざり合う場所にある集落。新田氏の一門が住み着いたとも言われ、広大な緩斜面を利用して、豊かな耕作地が拓かれた。かつて約20戸あった暮らしは、今では常住3人になった。下界のうだるような暑さはここに無い。あるのは『過疎』という二文字だ。
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古くは平安の頃、花山天皇が入水したと伝えられる谷間の奥深く。その子孫とも言われる人々の住む集落があった。集落の人々は『花山』性を名乗り、神社は『花山』神社と呼ばれた。集落から人々が去ったのは、60年かそれ以上昔のこと。それでも営みの跡は消えることなく、伝説の地に残り続けていた。