R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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非常に厳しい環境だが、島の人々は力強く暮らしてきた。後年になって、自家発電による時間給電、電話、簡易水道が整備された。学校もあった。それでも、港が無いのが致命的だった。港が無いので、都度、船を引き揚げる必要があるが、島の若い人が少なくなり、それも困難になってしまったのだ。
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穏やかな風景が広がる町の中心部。大入(おおにゅう)集落は、愛知県東栄町の東部、大入川沿いに位置する。天竜川水系の大入川は、他の天竜川支流と同様に険しい渓谷を成し、12kmにもおよぶ渓谷は大入渓谷と呼ばれている。大入集落は、その真っ只中に存在していた。この風景からは想像できない場所だ。
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道路脇に放置された数台の廃車。岩城島から見えた複数の車両は、この廃車群だった。これらは、かつて赤穂根島で出作りが盛んだったことを意味している。海岸に目をやると、小さな波止場があり小舟が浮かんでいた。それにしても、小舟があるということは、この島に誰か来ているのだろうか。
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大鶴津・小鶴津集落へ向かうにあたり、志和集落で聞き込みを行った。色々な方にお話を伺った中で、漁師の方から『大鶴津・小鶴津へは、峠で分かれる道で向かえばいい。車はダメだが、歩いてなら行ける』、『大鶴津は5、6年前まで住んでいた。小鶴津はそれよりも前にいなくなった』と教えていただいた。
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『道が無い』 嶽集落まで距離はあるが、車であれば時間はかからないだろう。そう思っていた矢先、目の前の道が無い。道が綺麗に落ちていた…まだ1kmしか進んでいないが、早くも嶽への訪問は断念なのか。冷静になって周囲を見渡す。やはりあった。危なげな法面の上に、はっきりとした足跡が続いている。
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かつては小俣京丸の拠点でもあり、賑わいのあった石切集落。小俣京丸からはとうの昔に人がいなくなり、石切自体も風前の灯となっていた。美しく咲く桜は、人影のない静かな集落を眺めていた。
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出雲の大河に架かる長く美しい潜水橋。圧倒的な水の流れに対して、その存在はあまりにも小さかった。
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45年前、嶽集落に車道は無かった。しかし、最近の航空写真では真新しい林道が見える。この道を辿れば、嶽に向かうのは難しくなさそうだ。国道445号から林道に入る。舗装はすぐに途切れ、ダート路面が続く。真横を流れる横手谷は激しく荒れ、砂防ダムに大量の土砂が堆積している。一体何があったのか。
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『近くて遠い神社とは』 この神社のことだ。
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その集落は西祖谷山村(現・三好市)の『坂瀬集落』という。ネット上に情報は皆無で、現状も分からない集落なのだ。それ故、坂瀬の存在は以前から気になっていた。実は、2015年にも一度向かったが、道中の険しさから引き返していたのだ。それから4年が経過した今、再び『坂瀬集落』へと向かった。
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集落から子供たちの声が消えて随分経つ。四国山地でも特に険しいこの地域。現在の住人は僅かに2世帯3人。子供たちの声だけでなく、いずれ住人の姿も消えるだろう。
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なお、戦争孤児施設は『高島海洋少年共和園』と呼び、S.22年に開園されたが、入園していた孤児の放火によって建物が焼け、S.28年に閉園した。現在、この無人島にはキャンプ場があり、地図に描かれた道とトンネルは遊歩道として利用されている。
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『嶽集落』 ある日突然住人が消え去ったかの如く、家屋は当時ままで朽ちていた。神社の下には家屋が立ち並ぶ。集落内は植林されることもなく、明るい日差しが差し込む。古くは6戸あり、長い間変わることはなかった。集落の人々が協力して運んだという電柱が立ち、伸びる電線はどこかへと消えている。
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『こういう(堂平のように続ける)ところはなかなか無い』長谷寺の和尚さんはそう仰る。国内の過疎地域において、H.27年以降に消滅した集落は140。そのうち18の集落で伝統的祭事・伝統芸能等が放置されているという。どれだけ長く続く伝統であっても、受け継ぐことがなくなった時、その伝統は消える。
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『小祖谷に住んでいるのは2世帯3人。でも、私のお爺さんが入院しているので、今は2人』、『今も(元住人の方が)ちょくちょく帰ってきている』そして、お婆さんはこうも仰った。『みんな山から出ていった。親族からも、山を降りてきたらと言われる。それでも山の方がいい』
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徳島県西部の『祖谷山』地域には、1000mを超える山々が聳え、河川は深い峡谷となって流れている。このような厳しい環境下でも集落が存在し、平家落人の伝説が残るのも頷ける地域である。その祖谷山を流れる松尾川流域は『中祖谷』と呼ばれる。目的地の坂瀬集落は、中祖谷にある集落のうちの一つである
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集落内を探索した後、神社を探す。大入に神社があることは知っていたが、場所が分からない。地図では、集落外れに小さなピークがある。何となくその方向へ向かうと、植林が自然林に変わった。次々と現れる石仏、古びたお墓。奥には社が見える。地形のためなのか、社に近づくにつれて風が出てきた。
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小俣集落へのルートには、杉地区からの車道と、石切、京丸集落からの古道がある。過去には石切からのルートが多く利用されていたが、この古道を歩く人は既に無く、現在は杉地区からの車道が利用されている。ただ、車道は一般車通行止なので、4kmは歩く必要がある。今回は杉地区からの車道を利用した。
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トラバース区間を抜け、地形が穏やかになってきた。薄暗い植林の中に石垣も見えてきた。明らかに集落跡だ。標高は550m。近隣の人里である浦川までは100分、東薗目までは150分かかっていた。生活するにはあまりにも厳しい場所だが、多くの人が住み、学校もあったことは、驚きとしか言いようがない。
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足跡を辿って、法面の上をそっと渡る。この先、車がダメなら歩けばいい。車を置いて、嶽集落までの4kmを徒歩で向かう。崩落箇所からの道は、土砂崩れや土石流で悲惨なことになっていた。それでも、標高を上げるにつれて地形が穏やかになり、1000mを超える峰々が視界に入ってきた。何とも山深い場所だ。
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しかし、近代化が進むにつれ、ダンナとムラの人々の関係は希薄になっていく。その流れは昭和中頃に加速し、S.38年から続く水害で決定的になる。水害の復旧工事は、ムラの人々の現金収入源となり、焼畑の暮らしは消えていった。それは、嶽集落も同様であった。今、五木村に焼畑の暮らしは残っていない。
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崩落現場から1時間。峠に差し掛かる。峠では椎茸栽培が行われているようだが、人が訪れた形跡はない。車道が通れないからだろう。嶽集落までの車道は、作業道として近年開設されたもので、車道ができる以前は主に入鴨谷から山道を上っていた。峠を越え、徐々に生活の香りがしてくると建物が現れた。
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これが大入集落への入口なのか。県道を歩き出して約80分。地図上で唯一、山側の崖マークが途切れる場所がある。集落への入口だ。急な斜面に山道は見当たらず、植林された杉が育つ。谷側には『ゆーごーの吊り橋』へ向かう山道もあったはずだが、こちらも見当たらない。集落を目指して斜面を登り始めた。
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青崩の名の通り、このあたりの地質は青く、非常に脆いです。トンネルは順調に掘り進んでいるので、貫通はそう遠くはないでしょう。
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道は海岸沿いを離れ、山間部へと入っていく。すると、荒れたビニールハウスと数軒の小屋、先程まで使われたようなワゴン車が現れた。小屋の方に人影が見えたので声をかけてみる。すると、小屋の中から女性の方が出てこられた。