R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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今回Tさんにお聞きした内容、更に周辺地区で聞き取りした内容は、大変貴重なものでした。それら内容がツイートに収まりきらないので、リンク先のPDFファイルに纏めます。ご覧になれない方は連絡をお願いします。(PDFファイル:101MByte) drive.google.com/file/d/1ku72IF…
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国内には有人離島が416島存在する。農業で暮らす島、漁業に生きる島、観光で賑わう島、過疎に悩む島、そして住人のいない島、それぞれの島の事情は大きく異なる。ただ、"島の可能性"があるという点は、共通しているのではないだろうか。『人口2人』の赤穂根島。そこには、島の可能性を探る姿があった。
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櫃島を目指して北上する。渡船は、羽島、肥島、大島の脇を通っていく。いずれの島も溶岩台地であり、テーブルのような平たい形状をしている。また、今では大島以外は無人島化してしまったが、以前は有人島であったという共通点も持つ。萩漁港から20分ほど走ると、目の前に櫃島が迫ってきた。
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『杉峰集落』 陽当りを求めて尾根上に集落が存在する。この地域でよく見られる茶畑の広がる集落だ。ちょうど住人の方を見かけたので、小俣集落について伺った。『小俣への道は崩れていて集落へは行けない』、『住人がいなくなったのは50年前くらいだった』、『(小俣は)とんでもないところだ』
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進むことも、戻ることもできなくなったブルドーザー。小俣集落への道の保守用として使われていたようだ。小俣橋を渡った先は、更に道が荒れた。路面には落石が転がり、至る所で崩れている。特に、沢筋では道が流されている。そんな荒れた道を数百メートル歩くと、前方に建物が見えてきた。
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島の数箇所には井戸がある。水源の無い櫃島は水に乏しく、天水、井戸を利用している。また、電気・電話は海底ケーブルにより確保されているが、以前は燃料発電機による時間限定給電であった。そのような厳しい環境、及び定期船すら来ない利便性の悪さから、ここ20年で人口が急激に減少してしまった。
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この集落は本当によく雨が降る。麓で晴れていても、集落では雨が降っていることが多い。その雨が豊かな森林資源を生み、沢山の人たちが暮らしていた。しかし、それは全て過去のことだ。
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『車道の無い集落』 そこには昔ながらの営みが残り、桃源郷のような風景が広がっている。そう期待してしまうのだ。だが、それは幻想に過ぎない。今、車道の無い集落の殆どでは、住人だけでなく集落の姿すら消えようとしているのだ。地図で夢見た桃源郷。そこにあったのは『消滅』という二文字だった。
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大浜漁港への帰港後、百島氏と高見の団地に寄った。偶然にもNさんがおられたので、高島に行ってきたこと、建物が残っていたことをお話した。すると、Nさんは感慨深そうに『残っていましたか』と仰られた……団地に建てられた石碑が示すように、島民の方々の島への想いは今も昔も変わらないのだろう。
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実は知っていた。この広場の何処かに小俣集落への迂回路がある。それは、まるで隠し通路のようであった。先述の小俣集落への分岐には、広場といくつかの建物がある。そのうちの一つ、青いプレハブ裏に斜面を下る迂回路があるのだ。ただ、迂回路と言っても、一瞬躊躇してしまうような頼りない山道だ。
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今回のスレッド作成にあたり、ご協力いただきたいことがあります。この画像に書いてあることが何となくしか分からないのです。具体的に何と書いてあるのか解読いただけないでしょうか。
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集落内には生活の痕跡が散らばっていた。 高島では色々な野菜や果物が栽培され、海藻や魚貝類も採ることができた。しかし、水を必要とする米などは作ることができなかった。それ以外にも調味料や建築資材等、生活用品の大多数は本土に頼っていた。現金収入の手段は限られ、島民の生活は苦しかった。
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早速、集落へ向かう。道の入口には、ナンバーの無い軽トラが停まっていた。この軽トラは、港と集落間の荷物運搬用として島民の方が使用している。道は軽トラ程度の道幅しか無いが、他に通る車がないのでこれで十分だろう。港から約800m、木々のトンネルを抜けると、目の前が明るくなってきた。
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東薗目地区からの帰路、花祭会館に寄った。様々な展示物の中に、大入花祭の鬼面があった。この鬼面を含め、大入の花祭祭具は、国の登録有形民俗文化財に指定されている。Oさんは仰る『どうしてこんな山の中に国の重要文化財になるようなものがあるのか。どこから運ばれてきたのか。どこで作ったのか』
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『小俣橋』 小俣川には、想像以上に真新しい橋が架かっていた。銘板には昭和59年3月竣工とある。40年前の航空写真でも橋の存在が見られるので、これは架替え後の橋のようだ。そうは言っても、今となっては通る車もなく、橋上は堆積物に覆われている。この先、小俣橋を車が通ることは二度とないだろう。
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早川町にある『落ちそうで落ちない』稲又川橋が堆砂で埋まったようです。上流に崩壊地があるとはいえ、川床を数メートルも上昇させる土砂の量は物凄い。twitter.com/kendou774/stat…
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『白水団地』 後日、川辺川沿いにある白水団地を訪れた。偶然にも、嶽集落に住んでおられたNさんご夫妻にお会いした。当時のお話を伺い、神社の場所も教えていただいた。嶽の神社(日吉神社)は、団地内に移転されていたのだ。神社に向かい、この地に落ち着いた嶽の氏神様に手を合わせる。
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海に面した水汲み場。道が崩れて近づけなかった。島民の方々が最も苦労したのは水の確保である。高島は急峻な地形故に、河川が一切無い。長い間、天水と湧き水が水源だった。戦後に入ると徐々に改善され、S.26年に貯水タンク、その後に簡易水道が整備された。それでも豊富に使える量ではなかった。
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これを見た瞬間、確信した。徳久保には主が住んでいる。もう人の住む場所ではないのだ。神社内に残されたモノは、その警告だろうと解釈した。これ以上の長居は無用だ。足早に徳久保を後にした。この後、脇目も振らずに帰路を急いだ。登りは90分かかった急斜面も、50分ほどで下りきることができた。
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過去、五木村は焼畑の村であり、村中に焼畑が広がっていた。また、村内にある33のムラ(集落)では、ダンナと呼ばれる地頭を中心にムラの家々が階層化され、封建的主従関係とも、相互扶助関係とも言われる間柄を築いていた。山々によって外部から隔離された村で、独特な民俗文化が形成されていたのだ。
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日本最後の未舗装国道R458が舗装された、と言われていますが、実際には国内の一般国道総延長55874kmのうち、291km(自動車交通不能区間142km)が未舗装で残ります。R458は日本最後の【まともに走れた】未舗装の区間があったが正解で、【まともに走れない】未舗装の国道区間はまだまだ残されています。
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集落から人が出ていく。お婆ちゃんは山を降りるか悩む。若い人は集落の人達の手助けをする。様々な人の想いが交錯する。この地域での聞き取りは2年間に渡りました。お聞きした数々のお話は深く、重いものでした。時間をかけて纏めていきたいと思います。
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それでは、小俣集落についての情報を纏める。小俣が無住化したのは約50年前。その後も元住人の方が通われていたが、それもH.19年に途絶えた。H.19年に背後斜面の大崩落に巻き込まれ、以降集落は土砂に埋もれつつある。今では車道も崩落し、辿り着くのが困難な状態になってしまったのだ。
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高島の歴史は苦難に満ちたものだった。しかし、島に住む人々は互いに支え合い、幾多の困難を乗り越えてきた。今、島に住む人はいない。島を離れた人々はそれぞれの道を歩んだ。離島してから45年経ち、島民の方々は歳をとられた。或る人は『島に行きたくても、脚が悪くなって行けない』と仰る。
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来た道を戻り、更には島の南端へと向かう。荒れたゴカイ養殖場を横目に先を急ぐと…黒い物体が見えた。赤穂根島の住人だ。牛達は、島の保全を目的に飼い始められた。以前はロープで繋いでいたそうだが、今は放し飼いされている。美味しい物を求めて島を彷徨い、自分で小屋に帰ってくる利口な住人だ。