R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(リツイート順)

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過去から現在に至るまで、櫃島へ向かう定期船は無い。故に、櫃島へ向かうためには、個人の船、渡船等を利用しなければならない。島民の方は、今も昔も自家用船で行き来している。今回は萩漁港から渡船を利用した。渡船の船長は『今日は人が多い』と仰る。その言葉通りに、彼方此方に釣り人を見かけた。
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『集落を離れるのか、それとも集落に残るのか』集落は揉めに揉めた。多くの人が集落を離れたが、僅かな人が集落に残った。時が経ち、集落から人は消えていた。川上村で最も山深い集落とも言われる『瀬戸集落』
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『小俣分校』 上空を遮る木々の下には校舎が眠っていた。斜面の上方に建物が見える。近づいてみると、石碑には『石切小学校小俣分校』とある。S.41年の廃校から50年以上経ち、校庭と思われる平地には木々が聳えていた。石碑がなければこれが学校だったと気づくことは難しい。
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更に後日、ヒストリアテラス五木谷(五木村歴史文化交流館)を訪れた際に、学芸員のFさんから嶽集落や五木村についてのお話を聞かせていただいた。リンク先に、Fさん、Nさんにお聞きした内容を纏めます。(PDFファイル38.9Mbyte) drive.google.com/file/d/1vvYkSe…
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今回の大入資料中で触れた行方不明の【太刀(菊一文字)】について補足します。Oさんの本には、『戦後刀剣類の提出を免れるために山中に隠す(盗掘される)』とあります。しかし、元東栄町長は、本の序文でこう書かれています。
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『集落』 島の内陸には果樹園が広がっていた。木々には多くの甘夏が実っている。果樹園は今も手入れされているようだ。その先にはいくつかの家屋が見える。賑やかだった波の音は聞こえなくなり、周囲は静まり返っている。ここが海に囲まれた島であることを忘れてしまうような情景だ。
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大入の離村から60年経った。集落の姿は消え、当時を知るのはOさんだけになった。しかし、大入の地にあった多くの伝説は、花祭の鬼面に宿り続ける。伝説は伝えなければ消えていく。集落の存在が忘れ去られようとしている今、『花祭の鬼面』は時代を超えて、大入の伝説を後世へと伝えていくのだ。
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僅かな緩斜面には、お城のように石垣が積み上がる。大入集落では、稗、麦、蒟蒻が作られ、3aほどの水田もあった。炭焼も行なわれ、蒟蒻と炭の販売などで生計を立てていた。T.8年~S.27年にかけて分教場(東薗目小学校大入分教場)も開設され、1学級、教師1名、生徒10名の時もあったという。
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土砂は校舎を破壊し、教室の中まで流れ込んでいた。それでも、学校の証を示すかのように机、そして黒板が残っていた。住人のいなくなった小俣集落の末路。それはあまりにも虚しいものであった。
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地形で選ぶなら、魅力あふれる市町村とはこのことだ。
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港から島を見上げる。断崖に一本の道路が延びる。これが内陸への唯一の道だ。櫃島に人が住み始めたのは、平安時代とも、室町時代とも言われるが、明確な時期は分からない。ただ、少なくとも500年以上の歴史がある。それにしても、この島の祖先はどのようにしてこの断崖を登っていたのだろうか。
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岐阜県側、集落跡の標識を登っていくと、熊野神社跡があります。話は変わって、『日本三大酷道』という言葉があります。R418、R425、R439と言われてきましたが、時代とともに道路整備が進み、そろそろ見直しの時期に来ていると思います。個人的には、このR471・472も三大酷道に入れたいところです。
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ここに、過去の航空写真を示す。地図中に示す三軒の家屋は辛うじて姿を留めていたが、どう見ても住める状態ではない。45年を経て、多くの建物が倒壊し、残った家屋も朽ち果てるとは、 高島の自然環境の厳しさを窺い知ることができる。家屋の殆どは平屋建てであったが、2階建ての建物もあったようだ。
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二つの集落は小俣京丸と呼ばれ、名だたる秘境集落として知られている。また、古い歴史を誇る隠れ里としても知られている。以前から小俣京丸は憧れの地であり、当初は京丸集落を目的地としていた。しかし、下調べの過程で、小俣集落が崩壊したとの情報を目にしたのだ。斯くして、小俣へと向かった。
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以上で『地図に描かれた神社記号』についてのツイートは終わりです。嶽集落訪問にあたり、大変お世話になりましたNさん、Fさん、そしてお話を伺った五木村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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『神様のいない神社』 地図に描かれた神社記号。そこには確かに神社と思われる建物があった。しかし、建物の中に氏神様の姿は見当たらない。代わりに、ホースやトタンが散乱している。倉庫として使われているようだ。嶽集落には氏神日吉神社が祀られていたはずだ。神様は何処へ行ってしまったのか。
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この装置のプレス資料はリンク先です。マイナス2度以下になったときや、道路上の積雪が3センチに達した時にセンサーが感知し、3メートルの高さにあるヒーター7台が一斉に車道に向けて遠赤外線を放射し、雪の結晶を振動させて熱を起こすことで、雪をとかす(NHKより) hrr.mlit.go.jp/press/2022/1/2…
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離れゆく高島。島影を見る限りでは、ここに多くの人々が住んでいたとは到底思えなかった。S.50年3月28日、迎えの船に乗って全島民が離島し、500年とも言われる島の歴史に幕を下ろした。島民の方々は、離れゆく故郷『高島』を見つめて何を思ったのだろうか…
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実は、『人口2人』というのは上島町の町長ご夫妻であり、この方が町長ご夫人なのだ。ご夫妻は、赤穂根島で有機無農薬の自給自足農業に取り組まれていたのだ。島について伺いたい旨をお話すると、町長ご夫人は赤穂根島に関わる多くの内容を教えてくださった。
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小俣集落から人の気配が消えて、そう長くはなさそうだ。では、いつ無住化したのか。浜松市春野協働センターに確認したところでは、『国勢調査のデータにおいて、H.19年1月に1名おられたが、その後亡くなられた』ということだった。ただ、ネット上で調べた限りでは、それ以前に無住化していたようだ。
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この辺りで脱輪しています。楢峠区間で最も険しい箇所です。
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『集落跡』 狭い路地のような階段だが、これが島のメインストリートだった。両側には家々が立ち並び、その先には日本海を眺めることができた。高島を紹介する写真の多くは、この道を写している。しかし、月日を経て、立ち並んでいた家々、そして日本海の眺めは消えてしまった。
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『櫃島』 大きさの関係で渡船は港に入れない。渡船の舳先からテトラポッドに飛び移る。小さな港だが、多い時でも100人程度の島民を支えるには十分だったのだろう。船の引揚げ場には数隻の船が放置され、脇にある倉庫は朽ちていた。この光景だけでも、櫃島に住む人は極少であることが容易に想像できた。
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或る人は『目を瞑れば島を思い出す』と仰る。また、或る人は『虚しくなるから島を見に行けない』と仰る。島民の方々の想いは様々であるが、島で力強く生きてきたという記憶は残る。地図上では"点"として描かれた島であるが、その島には由緒ある歴史、そして島民の方々の想いが今も秘められているのだ。
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久しぶりに伊尾木川沿いに行ってきました。天ノ郷を目指しましたが、降雨で断念しました。残念。それにしても、この流域の過疎の酷さはすば抜けています。どこまでも続く無住集落は、恐ろしさすら感じます。