R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(古い順)

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島の数箇所には井戸がある。水源の無い櫃島は水に乏しく、天水、井戸を利用している。また、電気・電話は海底ケーブルにより確保されているが、以前は燃料発電機による時間限定給電であった。そのような厳しい環境、及び定期船すら来ない利便性の悪さから、ここ20年で人口が急激に減少してしまった。
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程なくして島民の方が来られたので、ご挨拶させていただいた。先のツイートで『櫃島の人口は2名』と書いたが、実は櫃島に常住者はいない。島民の方は、耕作のために本土から通っておられるのだ。これが『櫃島が無人島になるのも間近い』とされる所以である。無人島に限りなく近い島、それが櫃島だ。
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『櫃島分校』 萩市立大島小学校櫃島分校(S.40年廃校)。市内の浜崎町に寄宿舎が整備されたことにより廃校となった。集落の家屋に比べて建物の傷みは少ない。近年は倉庫等として利用されていたようだ。島からは人がすっかりいなくなってしまったが、桜は何事もなかったかのように咲いていた。
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『八幡宮』 樹齢数百年のリュウキュウエノキに囲まれて社殿が立つ。御神体は既に無く、もぬけの殻であった。島民の方によると『(御神体は)既に移動した』ということだった。それにしても倒木が直撃したのだろうか、悲しいくらいの荒れ方だ。見捨てられた神社は見守る人もなく、このまま朽ちていく…
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一旦集落へ戻り、畑の方へ向かってみた。島の平坦地には葉タバコ畑が広がっていた…はずだが、それは過去のことである。今は、僅かな耕作地が残るのみで、殆どが耕作放棄地という名の荒れ地になっている。どうやら、航空写真(2008年)に見えた耕作地は、大部分が放棄されてしまったようだ。
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荒れ地にある轍を追ってみる。平坦地の先には断崖、そして海があるのだが、平坦地がどこまでも続いているような錯覚に襲われる。轍の終わりは小さな果樹園だった。ここまで来ると、集落内では消えていた波の音が聞こえる。荒涼とした風景が広がる。無人島化していく島の過程とはこのことだろう。
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午後になる頃から海風が吹き出し、波が出てきた。港には、午前中に無かった自家用船が係留されていた。島民の方は、この船で本土との間を行き来されている。既に櫃島に常住する人はいない。ここにあるのは住民票だけだ。港でしばらく待っていると迎えの渡船がやってきた。
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かつて萩六島(大島、羽島、肥島、櫃島、尾島、相島)は、いずれの島にも住人がいた。しかし、羽島、肥島、尾島の3島からは住人が消え、島は人が住む以前の姿に戻りつつある。そして今、櫃島も同じ道を辿ろうとしている。『一枚の航空写真』に隠されたもの。それは徐々に消えゆく島の姿だった。
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以上で櫃島についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、お世話になりました船長、問い合わせさせていただいた萩市役所の方々、及びお話を伺わせていただいた島民の方にはお礼申し上げます。
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『何故、人々はその島に住み続けたのか』その謎を追いかけるために、小さな孤島へと渡った。島の姿は小さいかもしれないが、島に込められた元島民の方々の想いはとてつもなく大きかった。
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『いずれは無人島になる』そう言われ続ける島がある。平家の落人が辿り着いたとも言われる静かな島。その美しい街並みは徐々に消えつつある。アウトドアに活路を見出そうとした時期もあったが、進む過疎化に打ち勝つことは出来なかった。現在の島民数は25人。時は静かに、そして着実に過ぎていく。
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それでも、最近になって島の再生を目指して若い方が移り住まれた。待ち受けるのは苦難の道かもしれないが、島の未来を切り開くのは若い力だ。行き着く先は無人の島か、それとも島の再生か。『八島』は今、正念場を迎えている。
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スレッドにします。 『日本海に浮かぶ小さな無人島』地図上で"点"として描かれたその島は、周囲は断崖絶壁、内陸は緑に覆われ、とても人の住める島には見えない。だが、かつてこの島には人の営みがあった。無人化してから45年経った島の今を記録するために、益田市『高島』へ行ってみた。
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地図で見つけた小さな島。昔はこの島に人が住んでいたと知った時、『ここに人が住んでいたのか』という驚きと、『今はどうなっているのか』という疑問が湧いてきたのだ。しかし、ネット上に"現在の高島に関する情報"は殆ど見られない。高島はどうなっているのだろうか。実際に行って確かめるしかない。
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高島は島根県益田市の沖合約12kmにある。周囲は4km、島は断崖絶壁で囲まれ、平地は全く存在しない。それ故、港と言えるものはなく、小さな船着き場だけが存在する。有人だった当時、アクセスの困難さは国内有人離島の中でもトップクラスであった。『大海原の孤島』と呼ぶにふさわしい島である。
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『高島に行く』それは簡単ではない。島へ渡る手段も、島の現状も全く分からないのだ。夏の盛り、その糸口を掴むために益田市役所に問い合わせた。後日、市役所のKさんから連絡をいただいた。なんと、元島民(以降、島民とします)の方と取り合っていただき、聞き取りの機会を設けてくださったのだ。
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『逆潮と時雨も合点 島渡舟』、『昭和五十年三月 高島より土田に移転』 夏の終り、高島を望む丘にある団地にやって来た。高見と呼ばれるこの団地には、高島からの集団離島時、島民の方々が移り住まれたのだ。団地の片隅には一つの石碑が建てられていた。島民の菩提寺である明光寺の句であるという。
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聞き取り会は、団地の集会所で開かれた。団地取りまとめ役のNさんをはじめとして、多くの島民の方々、更に市役所のKさんが集まってくださった。聞き取り会では、高島での暮らし、出来事、島への想いなど、多岐に渡るお話を聞かせていただいた。(お聞きした内容については後のツイートに纏める)
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暗闇の中、渡船3隻が並んで高島へと向かう。これら渡船の船長は高島関係者でもある。乗船した船の船長からはこう伝言される『灯台のそばに梅の木がある。どうなっているか見てきてくれ』 ※高島には高島関係者以外、無断で上陸することはできません。また、危険な箇所も多数あります。
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時は過ぎ…秋の初め、夜明け前の大浜漁港に4人のメンバーが集まった。百島氏(@momoshima_jun)、鎌手地区自治会のTさん、他1名、そしてR774。渡船は大浜から出る。高島は磯釣りのメッカであり、平日であるにも関わらず、多くの釣り客がいる。この釣り客に混じって高島へと向かった。
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『船着き場』 船の舳先から巨岩に飛び移って高島に上陸する。高島に港はない。あるのは小さな船着き場だけだ。現在の船着き場は集団離島後に整備されたもので、それ以前は更に小さな船着き場だった。S.41年の灯台建設前は船着き場すらなく、波のタイミングを見て岩場に飛び移るしかなかった。
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薄明かりに高島の島影が見えてきた。まるで人を拒絶するかのような断崖に囲まれている。何とも恐ろしい島だ。断崖は、島の南側で10m、北側にいたっては40mもの高さがある。かつてこの島には人の営みがあった。それが事実だと分かっていても、ここに広がる風景からは全く想像することができない。
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船着き場から島を見上げると、巨岩が積み重なっている。その間を縫うように階段が伸びていた。島の玄関がこの光景とは、何ともインパクトがある。階段が整備されたのは灯台建設の頃である。それ以前はどうやってここを登っていたのだろうか。振り返れば、小さな船着き場で数人の方が釣りに興じていた。
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階段を登った先には、緑のトンネルが待ち受けていた。それは未知なる島への入口のようであった。緑のトンネルは、深い木々によって薄暗く、その中を道が続いていた。草が刈られているところを見ると、灯台の保守のために使用されている道のようだ。脇には空き瓶が転がっていた。
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島民の方からは『学校以外の建物は残っていないのではないか』と聞いていた。しかし、木々の下に一軒の廃屋が現れた。建物は残っていたのだ。先に進むと、学校の校舎も現れた。一方で、完全に潰れた建物も次々と見つかった。この時は一時的に道を見失っていたこともあり、まずは灯台を目指した。