R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(古い順)

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『落ちたら死ぬ』 急斜面を下る迂回路。人一人がやっとで通れる幅だ。眼下には小俣川が轟々と流れる。高さがあり、落ちてしまえば登り返すことはできない。それでも、トラロープや足元の丸太など、転落防止にはならないが通行できるように整備されている。車道の崩落後に造られた迂回路のようだ。
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『小俣橋』 小俣川には、想像以上に真新しい橋が架かっていた。銘板には昭和59年3月竣工とある。40年前の航空写真でも橋の存在が見られるので、これは架替え後の橋のようだ。そうは言っても、今となっては通る車もなく、橋上は堆積物に覆われている。この先、小俣橋を車が通ることは二度とないだろう。
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進むことも、戻ることもできなくなったブルドーザー。小俣集落への道の保守用として使われていたようだ。小俣橋を渡った先は、更に道が荒れた。路面には落石が転がり、至る所で崩れている。特に、沢筋では道が流されている。そんな荒れた道を数百メートル歩くと、前方に建物が見えてきた。
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『小俣集落』 確かに、小俣集落は崩壊していた。正確に言えば、背後斜面の崩壊により、多くの家屋が土砂に埋まっていたのだ。今も家屋の残る小俣。その殆どは木々に覆われてしまったが、比較的最近まで手入れされていた土地もあった。しかし、流れ込んだ土砂は、その土地をも埋め尽くしてしまった。
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小俣集落から人の気配が消えて、そう長くはなさそうだ。では、いつ無住化したのか。浜松市春野協働センターに確認したところでは、『国勢調査のデータにおいて、H.19年1月に1名おられたが、その後亡くなられた』ということだった。ただ、ネット上で調べた限りでは、それ以前に無住化していたようだ。
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『小俣分校』 上空を遮る木々の下には校舎が眠っていた。斜面の上方に建物が見える。近づいてみると、石碑には『石切小学校小俣分校』とある。S.41年の廃校から50年以上経ち、校庭と思われる平地には木々が聳えていた。石碑がなければこれが学校だったと気づくことは難しい。
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土砂は校舎を破壊し、教室の中まで流れ込んでいた。それでも、学校の証を示すかのように机、そして黒板が残っていた。住人のいなくなった小俣集落の末路。それはあまりにも虚しいものであった。
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小俣集落に1時間ほど滞在した後、帰路に就く。対岸の林道から小俣方向を眺めると、小俣が土砂に埋もれた原因が見えた。集落背面の稜線直下で大崩壊が発生し、大量の土砂が集落内に流れ込んでいたのだ。この様子は航空写真でもはっきりと見ることができる。
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『石切集落』 当然ながら小俣集落に住人はいない。それならばと、帰り際に石切集落に寄って小俣についての聞き取りを行った。見事な桜が咲くお宅があったので声をかけてみた。すると、お婆さんが出てこられた。『亡きお爺さんの育てた木で、今も大切にしているだに』(画像は許可をもらって撮影)
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87歳のお婆さんはこう仰った。『現在の石切は三世帯四名。営林署があった頃は三十世帯あった』、『茶畑と林業をやっていた。営林署にも手伝いに行った』、『お爺さんは先生で、石切の学校にも行っていた』、『子供は街に出た。今は一人で暮らしてる』、『体に気をつけて、元気にしないといけないだに』
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かつては小俣京丸の拠点でもあり、賑わいのあった石切集落。小俣京丸からはとうの昔に人がいなくなり、石切自体も風前の灯となっていた。美しく咲く桜は、人影のない静かな集落を眺めていた。
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それでは、小俣集落についての情報を纏める。小俣が無住化したのは約50年前。その後も元住人の方が通われていたが、それもH.19年に途絶えた。H.19年に背後斜面の大崩落に巻き込まれ、以降集落は土砂に埋もれつつある。今では車道も崩落し、辿り着くのが困難な状態になってしまったのだ。
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長い歴史を誇り、今も多くの人を魅了する小俣集落は、朽ち果て、土砂の下へ埋もれようとしていた。今後も背後斜面の崩落が続くことが予想され、集落が埋め尽くされるのも時間の問題だ。そう遠くない未来、小俣集落は名実ともに『幻の集落』となり、伝説の一つとして語り継がれていくことだろう。
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以上で小俣集落についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、小俣集落について問い合わせさせていただいた浜松市春野協働センターの方々、お話を伺わせていただいた杉峰集落の方、そして石切集落のお婆さんにはお礼申し上げます。
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標高1000mを超える峰々に囲まれた県道の終端。現在の地理院地図上には、何も描かれていない場所だ。かつて、ここには人の営みがあった。しかし、とある出来事がきっかけで、住人達は潮が引くようにいなくなった。今では、ここに残るものは何も無い。ただ沈黙だけが存在する。
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いくつもの家屋が立ち並ぶ島。しかし、その島にあったのは、時間が止まった集落だった。既にこの島に住む人は無く、元島民が通うのみだ。萩市の沖には、平らな6つの島がある。かつてはいずれの島にも住人がいたが、3つの島は無人島化した。そして今、4つ目の無人島が誕生しようとしていた。
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スレッドにします。 『一枚の航空写真』そこに写る島は、周囲を断崖に囲まれながらも、内陸に整然とした耕作地といくつもの家屋が存在する。一見、華やかそうに見えるが、現在の人口は僅か2名という。華やかな写真の先はどうなっているのか。現状を確かめるために、萩市の『櫃島』に行ってみた。
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櫃島(ひつしま)は、萩市街地から約10km、一番近い有人島の大島から約1.5kmの位置にあり、萩市沖にある6つの島、いわゆる萩六島のうちの一つである。東京ドーム17個分の面積を有しており、島の周囲には断崖が続き、内陸には平坦地が広がっている。その形状は何とも不思議な形をしている。
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過去から現在に至るまで、櫃島へ向かう定期船は無い。故に、櫃島へ向かうためには、個人の船、渡船等を利用しなければならない。島民の方は、今も昔も自家用船で行き来している。今回は萩漁港から渡船を利用した。渡船の船長は『今日は人が多い』と仰る。その言葉通りに、彼方此方に釣り人を見かけた。
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櫃島を目指して北上する。渡船は、羽島、肥島、大島の脇を通っていく。いずれの島も溶岩台地であり、テーブルのような平たい形状をしている。また、今では大島以外は無人島化してしまったが、以前は有人島であったという共通点も持つ。萩漁港から20分ほど走ると、目の前に櫃島が迫ってきた。
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『櫃島』 大きさの関係で渡船は港に入れない。渡船の舳先からテトラポッドに飛び移る。小さな港だが、多い時でも100人程度の島民を支えるには十分だったのだろう。船の引揚げ場には数隻の船が放置され、脇にある倉庫は朽ちていた。この光景だけでも、櫃島に住む人は極少であることが容易に想像できた。
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港から島を見上げる。断崖に一本の道路が延びる。これが内陸への唯一の道だ。櫃島に人が住み始めたのは、平安時代とも、室町時代とも言われるが、明確な時期は分からない。ただ、少なくとも500年以上の歴史がある。それにしても、この島の祖先はどのようにしてこの断崖を登っていたのだろうか。
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早速、集落へ向かう。道の入口には、ナンバーの無い軽トラが停まっていた。この軽トラは、港と集落間の荷物運搬用として島民の方が使用している。道は軽トラ程度の道幅しか無いが、他に通る車がないのでこれで十分だろう。港から約800m、木々のトンネルを抜けると、目の前が明るくなってきた。
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『集落』 島の内陸には果樹園が広がっていた。木々には多くの甘夏が実っている。果樹園は今も手入れされているようだ。その先にはいくつかの家屋が見える。賑やかだった波の音は聞こえなくなり、周囲は静まり返っている。ここが海に囲まれた島であることを忘れてしまうような情景だ。
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廃屋が立ち並ぶメインストリート。どことなく風鈴の音が聞こえてくる。どの家屋も立派な造りをしているが、その殆どが荒れ、無住化してからの月日を感じる。また、多くの蔵には乾燥機があり、葉タバコ栽培が盛んであったことが窺える。人影は無く、唯一真新しい櫃島交流施設だけが異彩を放っていた。