R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(古い順)

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『集落が一つ消えた』 2本の巨木がその歴史を物語る。古くは交通の要衝として番所が置かれ、その後は林業で栄えた集落。しかし、林業の衰退とともに人は去り、ついに集落は終焉を迎えた。今も残る集落の姿は、いずれ消えゆく運命にある。
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こんな場所に集落があると、気になって仕方がない。
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『衰退から消滅へ』 地図に描かれた建物の記号。ここに描かれた全てが無住だ。S.35年1008世帯4175人いた住人は、現在39世帯59人。村の中心はダムで沈み、地域を支えた基幹産業は時代と共に消えた。今、この地域に残るのは僅かな暮らしだけだ。もはや地域の衰退ではない。地域の消滅である。
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スレッドにします。 『地図に描かれた神社記号』それは必ずしも神社を示すとは限らない。九州山地の奥深く、かつて33人のダンナ衆が大きな影響力を持っていた村。この村の人里離れた山上にある神社記号は、今は無きムラの姿を示すという。山上の神社記号を確かめるため、『五木村』へ行ってみた。
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何故ここに神社記号があるのか。地図を見てそう思うことがある。この神社記号もそうだった。山上の神社記号を過去の航空写真、古地図と照らし合わせる。すると、『嶽(たけ)』という集落が現れた。現在の地図では集落が消え、神社だけが残されているのだ。現状を確認すべく、嶽集落へと向かった。
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『五木の子守唄』の発祥地として知られる五木村。熊本県の南部、川辺川沿いに位置する。現在の人口は、490世帯1025人。村全体が山岳地帯のため、村内の集落は川沿いの僅かな平地、または緩斜面上に存在している。目指す嶽集落は、村の中央部、入鴨谷から標高差で300m上方の山上にある。
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45年前、嶽集落に車道は無かった。しかし、最近の航空写真では真新しい林道が見える。この道を辿れば、嶽に向かうのは難しくなさそうだ。国道445号から林道に入る。舗装はすぐに途切れ、ダート路面が続く。真横を流れる横手谷は激しく荒れ、砂防ダムに大量の土砂が堆積している。一体何があったのか。
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『道が無い』 嶽集落まで距離はあるが、車であれば時間はかからないだろう。そう思っていた矢先、目の前の道が無い。道が綺麗に落ちていた…まだ1kmしか進んでいないが、早くも嶽への訪問は断念なのか。冷静になって周囲を見渡す。やはりあった。危なげな法面の上に、はっきりとした足跡が続いている。
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足跡を辿って、法面の上をそっと渡る。この先、車がダメなら歩けばいい。車を置いて、嶽集落までの4kmを徒歩で向かう。崩落箇所からの道は、土砂崩れや土石流で悲惨なことになっていた。それでも、標高を上げるにつれて地形が穏やかになり、1000mを超える峰々が視界に入ってきた。何とも山深い場所だ。
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崩落現場から1時間。峠に差し掛かる。峠では椎茸栽培が行われているようだが、人が訪れた形跡はない。車道が通れないからだろう。嶽集落までの車道は、作業道として近年開設されたもので、車道ができる以前は主に入鴨谷から山道を上っていた。峠を越え、徐々に生活の香りがしてくると建物が現れた。
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『神様のいない神社』 地図に描かれた神社記号。そこには確かに神社と思われる建物があった。しかし、建物の中に氏神様の姿は見当たらない。代わりに、ホースやトタンが散乱している。倉庫として使われているようだ。嶽集落には氏神日吉神社が祀られていたはずだ。神様は何処へ行ってしまったのか。
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『嶽集落』 ある日突然住人が消え去ったかの如く、家屋は当時ままで朽ちていた。神社の下には家屋が立ち並ぶ。集落内は植林されることもなく、明るい日差しが差し込む。古くは6戸あり、長い間変わることはなかった。集落の人々が協力して運んだという電柱が立ち、伸びる電線はどこかへと消えている。
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標高760mの嶽集落からは、遠くの山並みがよく見える。電気が通じたのはS.39年。高所ゆえ、水は少なかったという。そのような環境下で、6戸は協力して焼畑の暮らしを営んでいた。南向きの立地で農作物がよく育ち、周辺の集落からは羨ましがられた。それでも、嶽の人々は山を下りざるを得なかった。
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過去、五木村は焼畑の村であり、村中に焼畑が広がっていた。また、村内にある33のムラ(集落)では、ダンナと呼ばれる地頭を中心にムラの家々が階層化され、封建的主従関係とも、相互扶助関係とも言われる間柄を築いていた。山々によって外部から隔離された村で、独特な民俗文化が形成されていたのだ。
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しかし、近代化が進むにつれ、ダンナとムラの人々の関係は希薄になっていく。その流れは昭和中頃に加速し、S.38年から続く水害で決定的になる。水害の復旧工事は、ムラの人々の現金収入源となり、焼畑の暮らしは消えていった。それは、嶽集落も同様であった。今、五木村に焼畑の暮らしは残っていない。
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『入鴨谷』 嶽集落からの帰路、聞き込みのために入鴨谷へ向かった。入鴨谷沿いの集落群はどこも空き家が多く、土砂に埋もれた家もある。いずれの集落にも人影はなく、聞き込みすることはできなかった。それならばと村役場を訪ねたところ、嶽は白水団地へ集団移転したと情報を得ることができた。
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S.38年、未曾有の水害によって前述の横手谷は大崩壊を起こし、多くの人命を飲み込んだ。その後も災害は続いた。S.50年、五木村は防災・利便性向上を目的に白水団地を作り、中道、入鴨、嶽集落を集団移転しようとした。中道、入鴨では集落に留まる人がいた。一方で、嶽は全戸移転したのだった。
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『白水団地』 後日、川辺川沿いにある白水団地を訪れた。偶然にも、嶽集落に住んでおられたNさんご夫妻にお会いした。当時のお話を伺い、神社の場所も教えていただいた。嶽の神社(日吉神社)は、団地内に移転されていたのだ。神社に向かい、この地に落ち着いた嶽の氏神様に手を合わせる。
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更に後日、ヒストリアテラス五木谷(五木村歴史文化交流館)を訪れた際に、学芸員のFさんから嶽集落や五木村についてのお話を聞かせていただいた。リンク先に、Fさん、Nさんにお聞きした内容を纏めます。(PDFファイル38.9Mbyte) drive.google.com/file/d/1vvYkSe…
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五木村は、平家の落人、或いは源氏一門が住み着いた村と言われる。嶽集落の始まりは分からないが、焼畑のために人が住み着いたと考えられる。その後、人々が集まり、この地に落ち着き、ムラ(集落)を作った。それから長い年月、嶽の人々は幾度の災害や厳しい環境の中で焼畑の暮らしを続けてきたのだ。
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戦後、ムラは大きく変わった。ムラだけではない。ダンナとムラの人々の関係も、焼畑の暮らしも、その殆どが変わった。変わらないのは、ムラの記憶だけだ。『地図に描かれた神社記号』たとえ神社がなくとも、地図上の記号は無意味なものではない。そこにあったムラの姿を今に伝える大切な記号だった。
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以上で『地図に描かれた神社記号』についてのツイートは終わりです。嶽集落訪問にあたり、大変お世話になりましたNさん、Fさん、そしてお話を伺った五木村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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『龍宮城は物語の中にだけ存在する』それは間違いだ。ここで、兵庫県が誇る龍宮城をご覧ください。
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【未舗装酷道の458号線が全線舗装化されます】 日本最後の未舗装国道とも言われる458号線ですが、ついに全線舗装されます。今年度いっぱいは、舗装工事のために通行止めです。最上総合支庁建設部に確認しました。
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工事期間が妙に長いので、もしかすると・・・と思って確認したところ、未舗装区間は今年度工事で全て舗装するとのことでした。国道から未舗装路がなくなりますが、都道府県道にはまだまだ未舗装路があります。引き続きお楽しみください。