R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

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土砂に埋もれる学び舎。写真に写る建物は全て廃墟だ。学校、郵便局、商店、そして家屋。流域からは人が消え、建物だけが残された。それらもいずれ、朽ちる時が来るだろう。
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四国山間部の生活道路。四国山間部と紀伊半島は、標高が低いからといって舐めてかかると痛い目を見る。
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古くは平安の頃、花山天皇が入水したと伝えられる谷間の奥深く。その子孫とも言われる人々の住む集落があった。集落の人々は『花山』性を名乗り、神社は『花山』神社と呼ばれた。集落から人々が去ったのは、60年かそれ以上昔のこと。それでも営みの跡は消えることなく、伝説の地に残り続けていた。
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酷道・険道走行は危険と隣り合わせ
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『水とともにある暮らし』 水の都とも言われる都市に、小さな島がある。中洲のようにも見えるが、人の暮らしがある立派な島だ。未だに橋はなく、島民の方は自家用船で行き来する。古くは江戸時代から続く暮らしが、今もこの島には残る。
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出雲の大河に架かる長く美しい潜水橋。圧倒的な水の流れに対して、その存在はあまりにも小さかった。
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『住人数0人』ダート林道の先にある集落。航空写真では緑に染まる。深山に佇む集落は、かつて、林業と共に大いに賑わった。しかし、林業の終焉は、集落の終わりを意味していた。今、常住する人はいなくなり、僅かな人が通い続ける。四国山地に見られる風景の一つである。
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以上で田丸集落についてのツイートは終わりです。田丸訪問にあたり、大変お世話になりましたRさん、問い合わせさせていただいたNさん、そしてお話を伺った西祖谷山村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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Rさんは、対岸の眠谷からご先祖様のお参りをされている。地図にあった田丸集落は、その姿を消してしまった。しかし、落人から始まった歴史、そして人の営みがあった事実が消えることはない。追手から逃れた落人が隠れ住んだ田丸は、今、再び隠れ里となって、祖谷の山中に残り続けているのだ。
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『田丸は、平家の落人さんの集落です。なので、祖谷温泉がある祖谷街道からは家や人の営みは見えない作りになっていたそうです。敵に見つかれば襲撃されますし、だからこその、あの田丸橋なのです』
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"ひの字渓谷"展望所に戻ってきた。紅葉時期とあって、多くの観光客が行き交う。その中で田丸集落を眺めていた。絶海の孤島、遥かな山奥、どんな場所であっても人は住む。人が住むからには始まりがある。田丸の始まりははっきりしない。村史には、喜多源内の直轄地とある。ただ、Rさんはこう仰るのだ。
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田丸集落への訪問は困難だと思っていた。しかし、半年前、"とある方"にコンタクトを取らせていただいてから話は進んだ。"とある方"とは、御主人が田丸出身のRさんである。今回Rさんから伺った内容、更に後日、西祖谷山村の方々から伺った内容について、リンク先に纏めます。 drive.google.com/file/d/1WNHEHs…
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祖谷川が増水すると戻れなくなる。長居せずに帰路に就いた。不安だらけの往路に比べ、余裕のある復路だった。ただ、慣れていても危ない道程であることに変わりはない。田丸の方々は、毎日のようにこの山道を行き来していた。田丸が無住化して月日が経ち、そのことを知る人はごく僅かになっている。
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『妙見神社』 倒木に直撃されたのか、神社は無残な姿になっていた。ささやかなお供えをして手を合わせた。これは、"とある方"からのお願いだった。田丸のご先祖様は、隠れ里とも言えるような土地で長い間、力強く暮らしてきた。住む人はいなくなったが、今も田丸の地を想う方々がおられるのだ。
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田丸集落は三方向を急斜面に囲まれ、集落に至る道は実質一本という、まさに周囲から孤立した集落であった。これだけの場所でありながら、多い時で19世帯90人もの人口があった。ライフラインの整備は困難であり、電気が来ることは無かった。そのような事情もあり、S.50年頃に無住化した。
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離村時に植えたと思われる杉は大きく育ち、日差しを遮っていた。薄暗い集落内には耕作地跡が広がり、数軒の家屋が残っている。ただ、とても人の住める状態ではない。当時は、畑作を中心として炭焼などを行っていた。尾根上に位置するが清水の出る場所があり、水に困ることはなかったという。
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『田丸集落』 前田丘から2時間半。生活用品の散らばる耕作地跡を越えると廃屋が現れた。風が轟々と吹き、対岸からは車やバイクの音が聞こえる。三方向とも明るく、尾根上に出たことがはっきりと分かる。かつての田丸は、傾斜が緩くなった尾根上と周辺に耕作地があり、その中に家屋が点在していた。
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つづら折りの山道が続く。ザレ気味で傾斜もきつい。それでも、先程の前田丘から祖谷川までの下りに比べると全然歩きやすい。登り始めて1時間経ち、周囲が明るくなってきた頃、対岸の方向へワイヤーが伸びていた。"とある方"のお話では、前田丘に野猿があったそうなので、その遺構かもしれない。
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田丸橋付近では、倒壊家屋、耕作地跡、墓跡が見られた。田丸集落と言っても、家屋は標高300mと600mの2箇所に集まっていた。標高300mの田丸橋付近には二軒の家屋があり、その様子は当時の航空写真からも窺い知ることができる。この先、標高600mに向けて誰も来ることがないであろう山道を登っていく。
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対岸まで渡りきり一息ついた。見上げると、斜面上部まで植林地帯が続いている。田丸集落までは、この中を300mも登り返さないといけない。それ以前に、目の間に続く崖を登らないといけない。登れそうな場所を探して、木々を手がかりに崖を這い上がる。崖上には道筋があり、田丸橋の主塔へ繋がっていた。
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田丸橋が落ちていることは知っていた。橋がなければ渡河するしかない。田丸集落に行けるか否かは、祖谷川の水量次第だ。更にマムシも多いという。晩秋を狙ったのはこのためだった。幸いにも水量は少なく、20cm程度と浅い。これは行けると、慎重に渡河する。川底は苔で滑りやすく、水がとても冷たい。
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『田丸橋』 長さ70m、高さ13.9m。T.14年に四国水力電気によって架けられた。田丸集落へ至る主要な吊橋であったが、踏み板は落ち、対岸に渡ることができない。橋の袂には仏様が置かれていた。被せられた帽子はすっかり苔生している。いつしか、ここに仏様があったことも忘れ去られるのだろう。
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それはあり得ない。尾根から斜面を下る段階になると、山道は豹変した。急斜面を横切る山道は、滑落しようものなら谷底まで落ちてしまう。しかも斜面と同化して、道筋が分からない。何度も迷いながらも吊橋が見えてきた。結局、直線距離で200m、標高差100mを進むのに、30分以上要してしまった。
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『前田丘バス停』 何もない山の中にバス停がある。かつて、田丸集落の方々が利用していた名残りだろう。ここから田丸へ行けると聞いていた。確かに、道路脇から尾根道が伸びている。準備して尾根道へ向かう。バス停からの尾根道は、傾斜もなく歩きやすい。意外と楽に田丸へ辿り着けるのかもしれない…
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『田丸集落まで辿り着けるのだろうか』徳島県道32号線沿いの"ひの字渓谷"展望所から田丸の方向を眺める。祖谷川からの比高は約100m。この険しい谷間を見た時、不安を覚えずにはいられなかった。ただ、今回は事前に"とある方"から田丸についての情報をお聞きしていた。行けるところまで行ってみよう。