R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

126
『炭焼き又次郎』 炭焼が盛んだった地域に、京塚さまと呼ばれる神社があった。山の中にも関わらず、祭りにもなると出店が立ち並び、多くの人が訪れた。当時、周囲には田畑が広がる美しい里山風景があった。時は過ぎ、訪れる人はいなくなり、里山風景も消えてしまったが、民話は今も語り継がれている。
127
この地域は、日本でも有数の潔い地形なのだ。
128
『伝説』 姫の恨みを買い、八軒以上には増えないと言われた集落。今から700年前、この集落に寺院が創建された。しかし、室町時代に寺院は火災で焼けたという。はるか昔の出来事だが、元住人の方は仰るのだ。『田圃を作る時に、焼けた木材や臼、朝鮮のお金みたいなものが出てきた』
129
長い間、集落を眺め続けてきたお地蔵様。誰よりも集落のことを知っている。兵庫県の山間部。住民基本台帳では1世帯2人の集落。 多くの墓標が、かつての賑やかさを物語る。今、誰にも知られることなく、集落は終わりを告げようとしている。
130
『四国4県のいいところ』 聳える山々も、美しい流れの川も、綺麗に広がる海も、全ての要素が四国各県に揃っているところだ。
131
『実走!酷道・険道のまとめ』を大幅改訂しました。リンク先にアップしましたので、どうぞご利用ください。(Googleドライブ:22MByte) drive.google.com/file/d/1X6jIW6…
132
土佐と銅山川の文化が混ざり合う場所にある集落。新田氏の一門が住み着いたとも言われ、広大な緩斜面を利用して、豊かな耕作地が拓かれた。かつて約20戸あった暮らしは、今では常住3人になった。下界のうだるような暑さはここに無い。あるのは『過疎』という二文字だ。
133
遙か山奥の集落へと向かう古道。今、この道を歩く人はいない。しかし、多くの人々が歩んだ道は、その長い歴史とともに、簡単に消えることはない。
134
工事期間が妙に長いので、もしかすると・・・と思って確認したところ、未舗装区間は今年度工事で全て舗装するとのことでした。国道から未舗装路がなくなりますが、都道府県道にはまだまだ未舗装路があります。引き続きお楽しみください。
135
【未舗装酷道の458号線が全線舗装化されます】 日本最後の未舗装国道とも言われる458号線ですが、ついに全線舗装されます。今年度いっぱいは、舗装工事のために通行止めです。最上総合支庁建設部に確認しました。
136
『龍宮城は物語の中にだけ存在する』それは間違いだ。ここで、兵庫県が誇る龍宮城をご覧ください。
137
以上で『地図に描かれた神社記号』についてのツイートは終わりです。嶽集落訪問にあたり、大変お世話になりましたNさん、Fさん、そしてお話を伺った五木村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
138
戦後、ムラは大きく変わった。ムラだけではない。ダンナとムラの人々の関係も、焼畑の暮らしも、その殆どが変わった。変わらないのは、ムラの記憶だけだ。『地図に描かれた神社記号』たとえ神社がなくとも、地図上の記号は無意味なものではない。そこにあったムラの姿を今に伝える大切な記号だった。
139
五木村は、平家の落人、或いは源氏一門が住み着いた村と言われる。嶽集落の始まりは分からないが、焼畑のために人が住み着いたと考えられる。その後、人々が集まり、この地に落ち着き、ムラ(集落)を作った。それから長い年月、嶽の人々は幾度の災害や厳しい環境の中で焼畑の暮らしを続けてきたのだ。
140
更に後日、ヒストリアテラス五木谷(五木村歴史文化交流館)を訪れた際に、学芸員のFさんから嶽集落や五木村についてのお話を聞かせていただいた。リンク先に、Fさん、Nさんにお聞きした内容を纏めます。(PDFファイル38.9Mbyte) drive.google.com/file/d/1vvYkSe…
141
『白水団地』 後日、川辺川沿いにある白水団地を訪れた。偶然にも、嶽集落に住んでおられたNさんご夫妻にお会いした。当時のお話を伺い、神社の場所も教えていただいた。嶽の神社(日吉神社)は、団地内に移転されていたのだ。神社に向かい、この地に落ち着いた嶽の氏神様に手を合わせる。
142
S.38年、未曾有の水害によって前述の横手谷は大崩壊を起こし、多くの人命を飲み込んだ。その後も災害は続いた。S.50年、五木村は防災・利便性向上を目的に白水団地を作り、中道、入鴨、嶽集落を集団移転しようとした。中道、入鴨では集落に留まる人がいた。一方で、嶽は全戸移転したのだった。
143
『入鴨谷』 嶽集落からの帰路、聞き込みのために入鴨谷へ向かった。入鴨谷沿いの集落群はどこも空き家が多く、土砂に埋もれた家もある。いずれの集落にも人影はなく、聞き込みすることはできなかった。それならばと村役場を訪ねたところ、嶽は白水団地へ集団移転したと情報を得ることができた。
144
しかし、近代化が進むにつれ、ダンナとムラの人々の関係は希薄になっていく。その流れは昭和中頃に加速し、S.38年から続く水害で決定的になる。水害の復旧工事は、ムラの人々の現金収入源となり、焼畑の暮らしは消えていった。それは、嶽集落も同様であった。今、五木村に焼畑の暮らしは残っていない。
145
過去、五木村は焼畑の村であり、村中に焼畑が広がっていた。また、村内にある33のムラ(集落)では、ダンナと呼ばれる地頭を中心にムラの家々が階層化され、封建的主従関係とも、相互扶助関係とも言われる間柄を築いていた。山々によって外部から隔離された村で、独特な民俗文化が形成されていたのだ。
146
標高760mの嶽集落からは、遠くの山並みがよく見える。電気が通じたのはS.39年。高所ゆえ、水は少なかったという。そのような環境下で、6戸は協力して焼畑の暮らしを営んでいた。南向きの立地で農作物がよく育ち、周辺の集落からは羨ましがられた。それでも、嶽の人々は山を下りざるを得なかった。
147
『嶽集落』 ある日突然住人が消え去ったかの如く、家屋は当時ままで朽ちていた。神社の下には家屋が立ち並ぶ。集落内は植林されることもなく、明るい日差しが差し込む。古くは6戸あり、長い間変わることはなかった。集落の人々が協力して運んだという電柱が立ち、伸びる電線はどこかへと消えている。
148
『神様のいない神社』 地図に描かれた神社記号。そこには確かに神社と思われる建物があった。しかし、建物の中に氏神様の姿は見当たらない。代わりに、ホースやトタンが散乱している。倉庫として使われているようだ。嶽集落には氏神日吉神社が祀られていたはずだ。神様は何処へ行ってしまったのか。
149
崩落現場から1時間。峠に差し掛かる。峠では椎茸栽培が行われているようだが、人が訪れた形跡はない。車道が通れないからだろう。嶽集落までの車道は、作業道として近年開設されたもので、車道ができる以前は主に入鴨谷から山道を上っていた。峠を越え、徐々に生活の香りがしてくると建物が現れた。
150
足跡を辿って、法面の上をそっと渡る。この先、車がダメなら歩けばいい。車を置いて、嶽集落までの4kmを徒歩で向かう。崩落箇所からの道は、土砂崩れや土石流で悲惨なことになっていた。それでも、標高を上げるにつれて地形が穏やかになり、1000mを超える峰々が視界に入ってきた。何とも山深い場所だ。