R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

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僅かな面積の尾島では、多くの人を養うことはできない。一方で、葉タバコ等の畑作は多大な労力を要するため、子供たちも労力の一端を担っていた。その子供たちが島を出ていったのだ。労働力は減少し、生産量も減った。島民たちは出稼ぎに出たが、出稼ぎによる人口流出は島の共同作業を困難にした。
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尾島での暮らしは、苦労の連続であった。特に、港整備による多額の費用負担、自家発電の負担など、小さな離島という環境面における島民の負担は重かった。それでも島民たちは協力して困難を乗り越えてきた。しかし、乗り越えられない困難があった。寄宿舎創設により、子供たちが島を出ていったことだ。
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迎えの船で萩へ戻った。売却から50年後の尾島を確かめることはできた。しかし、もう一つの疑問である『何故、尾島は売却されたのか』は解決できていない。後日、情報を求めて様々な場所を訪ねたが、関係者にお会いすることはできず、書籍での調査となった。50年という年月はあまりにも重い。
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尾島が歴史に現れるのは元文5年で、9戸、47人とある。平家落人の伝承や、尼子家遺臣供養の念仏行もあるが、それ以前の記録は残っておらず、六島村の他島に比べて歴史が浅い。このことより、尾島での暮らしの始まりは他島より遅いと考えられ、始まりのきっかけが他島からの出耕作だったとも考えられる。
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『大歳宮』 社殿は倒壊し、2つの鳥居は大きく傾いていた。地図に描かれた神社記号の場所には、確かに神社があった。島が売却された後、神社を訪れる人は皆無だったのか、酷い荒れ具合だ。御神体は島民とともに本土に渡ったのだろうか。神社の存在が人々から忘れ去られるのも、そう遠くなさそうだ。
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45年前の航空写真には、台地上に耕作放棄地と農作業小屋が写っていた。今では影も形もなく、明るく広々とした雰囲気だけが残っている。尾島での主な現金収入源は葉タバコで、それ以外にも麦、甘藷、スイカ、葡萄を作り、漁業も細々と行っていた。厳しい環境での暮らしは、決して楽ではなかっただろう。
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『尾島の墓標』 墓標のように太い柱が立っていた。太さからして、葉タバコ乾燥庫のようだ。碍子や電線など、暮らしの跡も散らばる。尾島の戸数は、多い時で10戸。S.29年に自家発電が始まり、S.41年に海底経由の給電開始、共同電話もS.36年に開通した。ただ、定期船が来ることは一度もなかったという。
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続いて、家屋が立ち並んでいた辺りに向かった。しかし、家屋は見当たらない。尾島が無人化したのはS.47年10月。全島民の離島時、家屋は壊されることなく、そのままで残された。離島から50年経ち、全てが朽ち果てたのだろうか。半ば諦めつつ藪の中を進む。不意に藪が開け、何かが見えるではないか。
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『相島小・中学校 尾島分校』 朽ちゆく校舎。M.18年開校、S.40年廃校。S.40年、萩市は僻地教育の欠陥を補う目的で、市街地に寄宿舎を創設した。親たちも理解を示し、島の分校は廃止され、子供たちは寄宿のために島を出た。このことが島売却の引き金になるとは、誰にも想像できなかった。
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まずは学校跡へ向かった。昔の航空写真から、尾島の学校は港近くにあると分かっていた。確かに、港から校舎の屋根が見える。距離にして僅か100mだが、濃い藪が行く手を塞ぐ。藪を掻き分けて進むが、校舎が近づくにつれて藪の密度が濃くなる。何度も藪に押し返されながら前進を続ける。
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夜明けの尾島。釣り客に混じって尾島へやって来た。巨大な丸石を積み上げた港へ降り立つ。小さな島にしては立派な港だ。港から島を見渡す。青く美しい海とは対象的に、内陸部に見えるのは濃厚な藪、藪、藪……あまりの藪の激しさに少々怖気づくが、考えていても仕方がないので藪の中に入り込む。
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尾島は、萩市街地の北西約10kmに浮かぶ、面積0.34平方kmの小さな島である。島は溶岩台地から成り、その姿は平べったく、南側の砂浜を除いて周囲を海蝕崖に囲まれる。元々は、尾島、羽島、肥島、大島、櫃島、相島の6つの島で六島村を構成していたが、S.30年に萩市に合併され、現在は萩市に属している。
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かつて、萩市の沖合には、6つの島で構成された六島村(ろくとうそん)という村があった。6つの島のうち、尾島を45年前の航空写真で眺めた。海岸近くに身を寄せ合うかのように家屋が立ち、内陸には青々とした畑が広がる。鮮やかな色彩を持つ島は、何故売却されたのか。令和4年春、尾島に渡った。
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スレッドにします。 『売られた有人島』断崖に囲まれた小さな島。50年前、島は売却された。それは島民たちにとって苦渋の決断だった。地図上には、今でも建物と神社の記号が見える。しかし、航空写真に写るのは、緑に包まれた島の姿だ。売却から50年後の島を確かめるため、萩市『尾島』に行ってみた。
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R157は本日開通しました。岐阜県~福井県の通行が可能です。また、R471・472楢峠は6/3開通予定です。ただし、状況によっては変わるかもしれません。(画像は過去のR157です)
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スレッドにします。 『消える集落』画像に写る危なげな都道。数年前まで、この先に人の住む集落があった。人口1399万を誇る大都市の東京都。その東京都心から僅か60kmの場所に、近年になって無住化した集落があるという。集落の現状を確かめるために、檜原村の『猿江集落』に行ってみた。
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酷道・険道をよく走る人に見られる困った病状 『標識や看板が信じられなくなる病』
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『石造物が溢れる集落』 よほど信仰深い集落だったのだろうか。多くの石造物が立つ集落。画像以外にも数多くの石造物が立つ。しかも、石造物はどれも立派な造りだ。何故これほどまでに石造物を建てるのか。未だに手掛かりを掴めずにいる。
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高知県東部。人口減少の激しい地区にある立派な神社。知名度はそれほど高くないのだが、巨木と荘厳な雰囲気が素晴らしい。このような素晴らしい神社が気取ることなく地域に溶け込み、地域住人の方々から大切にされているのが高知県のいいところだ。
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前回のスレッドのツイートから随分間隔が空いてしまいました。現在、山の集落と、離島のスレッドを並行して準備中です。5/21ツイート目標で進めています。他、各地の現地調査も進めています。順次スレッド化していきますので、今しばらくお待ち願います。
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四国山地にある航空写真に写らない集落。木々の下に隠れるように存在する。神社、祠、山道と、その立派さには驚かされるが、この集落を知る人はごく僅かだ。
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等高線が密に書かれた険阻な地形。ここに人が住んでいた。たったそれだけのことだが、惹かれずにはいられない。
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『鶴江の渡し』こと『市道 浜崎鶴江線』 水の都・萩に残る手漕ぎの渡船。橋のない地区を結ぶ、地区住民の大切な足だ。生活に密着した渡船で、且つ手漕ぎの渡船は、国内に殆ど残っていない。しかも、渡船と言っても市道扱いなので料金はかからないのだ。
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古地図に描かれた大入集落の一軒家。続報がありました。やはり家屋跡があったようです。しかし、あの険しい大入集落から更に山の中に、何故一軒家があったのでしょうか。何か理由があったのかもしれません。 chunichi.co.jp/article/445241
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ある日を境に人々が去った島。僅かな耕地のこの島では多くの人を養うことが難しく、長い間世帯数が変わることはなかったという。しかし、次第に時代に取り残され、人々は島を出ていくことを決断したのだ。離島から50年経ち、緑は島を飲みこんでいた。それでも人々の営みの跡は消せなかったようだ。