R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

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『たったの10年』で住人は随分と少なくなった。紀伊半島南部、古座川町最奥部にあたる小森川集落。現在の住人数は高齢者が3名。神事を行うことすら困難になった。美しい川の流れに、風格ある神社。そして人々の営み。深い山奥に残るこの美しい風景も、いずれは過去のものになっていく。
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『馬岡五社神社』 斜面の上には立派な神社があった。集落の規模と同様に大きな神社だ。建物はくたびれつつあるが、綺麗に手入れされていた。現住の方、或いは元住人の方が手入れされているのだろうか。その手間暇を考えると本当に頭が下がる。神社でお参りを済ませ、小祖谷集落を後にした。
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ひび割れた石碑。学び舎で旧友が再開することはもう無いだろう。お婆さんから学校の話を聞いたので、学校跡に行ってみた。雑草の生い茂る校庭。講堂と職員室が残るが、朽ちる過程に入りつつあった。多い時で約100人いた生徒は、現在0人。この地域は子供だけでなく、住人すらいなくなろうとしている。
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『小祖谷に住んでいるのは2世帯3人。でも、私のお爺さんが入院しているので、今は2人』、『今も(元住人の方が)ちょくちょく帰ってきている』そして、お婆さんはこうも仰った。『みんな山から出ていった。親族からも、山を降りてきたらと言われる。それでも山の方がいい』
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『小祖谷集落』 中祖谷の中心的集落である小祖谷集落。しかし、多くの家屋は廃屋と化し、住人の姿はない。そもそも、今も中祖谷に残る住人は極めて少ない。少なくとも、小祖谷、坂瀬以外の集落は全て消滅集落と化している。幸いにも、"とある"お宅でお婆さんにお話を伺うことができた。
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徳島県西部の『祖谷山』地域には、1000mを超える山々が聳え、河川は深い峡谷となって流れている。このような厳しい環境下でも集落が存在し、平家落人の伝説が残るのも頷ける地域である。その祖谷山を流れる松尾川流域は『中祖谷』と呼ばれる。目的地の坂瀬集落は、中祖谷にある集落のうちの一つである
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その集落は西祖谷山村(現・三好市)の『坂瀬集落』という。ネット上に情報は皆無で、現状も分からない集落なのだ。それ故、坂瀬の存在は以前から気になっていた。実は、2015年にも一度向かったが、道中の険しさから引き返していたのだ。それから4年が経過した今、再び『坂瀬集落』へと向かった。
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スレッドにします。 『この集落は生きているのか?』航空写真で見た時、ここには人の気配がした。四国山地には、地図上にその存在はあっても、無住化している集落は少なくない。では、この集落はどうなっているのか。その答えを求めるために、平家落人伝説の残る徳島県の『祖谷山』へ行ってみた。
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富山県にある552年続いた集落。『私の代でここを終わらせるのはあまりにも忍びない』そう仰るお爺さんは、毎日集落に通う。集落の人達は次々と山を降り、お爺さんも今は麓に住む。終わりに近づきつつあるこの集落を、緑がゆっくりと蝕み始めていた。
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以上で石鎚村の『黒川集落』についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、お話を伺わせていただいた東之川出身の方にはお礼申し上げます。なお、石鎚村については、今回の訪問では時間が足りなかったため再訪する予定です。
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石鎚村からは人の営みが消えた。今回訪れた黒川集落がそうであったように、住人のいなくなった集落はただ朽ち果てるのを待つばかりだ。村民の方々は、村の衰退を食い止めるために色々な努力をした。しかし、それも叶わなかった。過疎化の先に待つ未来。石鎚村は、その未来に辿り着いたのだ。
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黒川集落からの帰り道、石鎚村のいくつかの集落に寄ってみた。当然、どの集落にも人の気配はなく、残された家屋は荒れるに任されていた。唯一、この地域に最後まで住んでおられた中村集落だけは、今も人の手が入っているようであった。現在、石鎚村に残る住人は一人だけだ。
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では、黒川集落が無住化したのはいつだろうか。今回、石鎚村では、住人の方に出会うことはなかった。周辺の集落で聞き込みを行い、大保木村(現・西条市)東之川出身の方にお話を伺うことができた。それによると、『はっきりとは覚えていないが、S.50年代だったよ』とのことだった。(画像は東之川)
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"40年前の航空写真にあったいくつもの家屋"は全て朽ち果てていた。多くの参拝客で賑わっていた『黒川集落』。S.43年の石鎚登山ロープウェイ開通により黒川道を通る参拝客は激減、それをきっかけにして集落住人は次々に山を降り、ついには集落から人の姿は消えてしまったのだ。
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『八妙神社』 変わった形の鳥居…ではなく、鳥居は崩れかけていた。これでは、鳥居が崩れるのも時間の問題だろう。その先にある『八妙神社』も無残な姿を晒していた。人の手が入らなくなってから久しいようだ。この荒れ方からすると、既に他の神社に合祀されているのかもしれない。
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上黒川にある"地すべり危険箇所の看板"には、神社が描かれていた。早速、神社へ向かってみる。最初こそ分かりやすかった神社への道は、次第に怪しくなってきた。道を間違ったかな…そう思い始めた頃、鳥居が見えてきた。
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石鎚山へ至る参道沿いの集落として賑わった黒川集落は、下黒川、上黒川合わせて多い時で約30軒の家屋があり、その殆どが参拝者相手の季節宿(民宿)を営んでいた。今も残るのは二軒の家屋のみだが、共に当時の賑わいを感じさせる立派な建物だ。この二軒も季節宿を営んでいたのだろうか。
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『黒川集落(上黒川)』 黒川道沿いにある三界地蔵と石灯籠。この先に上黒川はあった。上黒川も下黒川と同様に、薄暗い森の中に石垣と平場が続いている。ただ、下黒川と異なるのは、二軒の家屋が残っていることだ。もちろん、無人となって随分経つので、建物は相当傷んでいる。
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航空写真では分からなかったが、木々の下には石垣がどこまでも続いていた。その様は城壁を想像させる。ただ、下黒川に残る家屋は無く、全て倒壊していた。下黒川の先には、黒川道沿いにS.4年まで分校があったが、痕跡を探し出すことはできなかった。
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『黒川集落(下黒川)』 植林帯を20分ほど登った頃、周囲に石垣が見えてきた。どうやら黒川集落(下黒川)に着いたようだ。黒川集落は2つの部落に分かれていて、下流の部落は下黒川、上流の部落は上黒川と言われる。現代の地図上から消えてしまったが、確かにここには集落があったのだ。
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この山道は"黒川道"と呼ばれる。つづら折れで一気に高度を上げた後は、緩い斜度で森の中を登っていく。ところどころに舗装が残り、集落への重要な道であったことが伺い知れた。石鎚登山ロープウェイができる前は、石槌山への表参道として、並行する今宮道と共に石槌山へのメインルートでもあった。
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河口集落から約800メートルの場所にある『虎杖(いたずり)集落』。僅かな期間、この集落には石鎚村の役場があった。いわゆる村の中心部であったのだが、今は住む人もおらず、怨念に満ちた農協跡が残るのみだ。ここから黒川集落への車道は無いため、登山道とも言える山道を辿ることになる。
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この『河口集落』は石鎚村の入口でもある。元来、石鎚村は農林業が主体で、石槌山への登山口としても賑わっていた。しかし、農林業の衰退、交通機関の発達による参拝ルートの変化により村は衰退した。2014年に、この先の中村集落に住んでおられた老夫婦が山を降り、石鎚村の住人はいよいよ一人になった
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石鎚村に通じる愛媛r12(西条久万線)で加茂川上流へ向かう。加茂川沿いにはいくつもの集落があるが、そのいずれもで過疎化が進んでいる。しばらく走ると、『河口集落』で道は二手に分かれる。道なりに進めば石鎚登山ロープウェイへ至るが、ここは右手の愛媛r142(石鎚伊予小松停車場線)へと進む。
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西日本最高峰の石鎚山に代表される石鎚山脈。中央構造線沿いに石鎚断層崖を形成し、平野部から見たその姿は屏風のようだ。石鎚村はこの屏風の麓にあった。村に平地は無く、ほぼ全域が加茂川の形成した深い谷間に位置した。そして、村内にある集落の殆どがいわゆる"山岳集落"であった。