R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

301
『集落跡』 狭い路地のような階段だが、これが島のメインストリートだった。両側には家々が立ち並び、その先には日本海を眺めることができた。高島を紹介する写真の多くは、この道を写している。しかし、月日を経て、立ち並んでいた家々、そして日本海の眺めは消えてしまった。
302
ここに、過去の航空写真を示す。地図中に示す三軒の家屋は辛うじて姿を留めていたが、どう見ても住める状態ではない。45年を経て、多くの建物が倒壊し、残った家屋も朽ち果てるとは、 高島の自然環境の厳しさを窺い知ることができる。家屋の殆どは平屋建てであったが、2階建ての建物もあったようだ。
303
生徒達が走り回っていた校庭には木々が生い茂っていた。教員は2人、生徒は多い時で30人ほどだった。このような僻地では、教育環境を本土並みに整えることは困難であった。それでも、教員の方々は少しでも良い教育を受けさせようと奮闘した。そして、子供達はどこまでも純粋であった。
304
『高島分校』 コンクリートブロック造りの校舎は無残な姿を晒していた。木造の講堂にいたっては姿を消していた。全島民の離島時に廃校となった益田市立鎌手小学校・中学校の高島分校。元々は集落の入口にあった2階建ての民家を校舎としていたが、老朽化によりこの校舎がS.37年に建てられた。
305
島に平坦地はないが、灯台の西側にヘリコプターが着陸できるくらいの開けた場所があり、畑が広がっていた。しかし、今では緑に埋め尽くされて見る影もない。そして、船長から頼まれた梅の木も探し出すことができなかった。人の手が入らなくなった土地は、緑に侵食されてしまう運命なのだ。
306
『高島燈台』 空に聳える真っ白な灯台。S.41年初点。高島周辺は海の難所であり、灯台ができるまでは度々事故が起きていた。道路も重機も無い高島において、建設は概ね手作業であり、島民の方々もアルバイトで従事していた。島が無人化してからも、海上保安庁の方が定期的に保守されている。
307
『野武士の墓と甘藷塚』 灯台へ向かう道の脇には、野武士の墓と言われる観音岩と、芋代官の井戸正朋を尊う甘藷塚がある。高島のルーツには、出羽武士の亡命説、出雲馬木城武士の漂流説、茶臼山城水軍の逃亡説の3つの謂れがある。何れにせよ、戦国時代に逃げ落ちた武士が住み着いた説が有力である。
308
島民の方からは『学校以外の建物は残っていないのではないか』と聞いていた。しかし、木々の下に一軒の廃屋が現れた。建物は残っていたのだ。先に進むと、学校の校舎も現れた。一方で、完全に潰れた建物も次々と見つかった。この時は一時的に道を見失っていたこともあり、まずは灯台を目指した。
309
島の至るところに大きな穴が空いている。オオミズナギドリ(ウガチ)の巣穴だ。高島には様々な動物が住み着いていて、巨大な蛇を見た人がいるという。有人時代は、犬、兎、鶏、ヤギなどを飼っていた。もちろん、猫もいた。今でも山猫が住んでいて、岩場に子供を生んでいるそうだ。
310
階段を登った先には、緑のトンネルが待ち受けていた。それは未知なる島への入口のようであった。緑のトンネルは、深い木々によって薄暗く、その中を道が続いていた。草が刈られているところを見ると、灯台の保守のために使用されている道のようだ。脇には空き瓶が転がっていた。
311
船着き場から島を見上げると、巨岩が積み重なっている。その間を縫うように階段が伸びていた。島の玄関がこの光景とは、何ともインパクトがある。階段が整備されたのは灯台建設の頃である。それ以前はどうやってここを登っていたのだろうか。振り返れば、小さな船着き場で数人の方が釣りに興じていた。
312
『船着き場』 船の舳先から巨岩に飛び移って高島に上陸する。高島に港はない。あるのは小さな船着き場だけだ。現在の船着き場は集団離島後に整備されたもので、それ以前は更に小さな船着き場だった。S.41年の灯台建設前は船着き場すらなく、波のタイミングを見て岩場に飛び移るしかなかった。
313
薄明かりに高島の島影が見えてきた。まるで人を拒絶するかのような断崖に囲まれている。何とも恐ろしい島だ。断崖は、島の南側で10m、北側にいたっては40mもの高さがある。かつてこの島には人の営みがあった。それが事実だと分かっていても、ここに広がる風景からは全く想像することができない。
314
暗闇の中、渡船3隻が並んで高島へと向かう。これら渡船の船長は高島関係者でもある。乗船した船の船長からはこう伝言される『灯台のそばに梅の木がある。どうなっているか見てきてくれ』 ※高島には高島関係者以外、無断で上陸することはできません。また、危険な箇所も多数あります。
315
時は過ぎ…秋の初め、夜明け前の大浜漁港に4人のメンバーが集まった。百島氏(@momoshima_jun)、鎌手地区自治会のTさん、他1名、そしてR774。渡船は大浜から出る。高島は磯釣りのメッカであり、平日であるにも関わらず、多くの釣り客がいる。この釣り客に混じって高島へと向かった。
316
聞き取り会は、団地の集会所で開かれた。団地取りまとめ役のNさんをはじめとして、多くの島民の方々、更に市役所のKさんが集まってくださった。聞き取り会では、高島での暮らし、出来事、島への想いなど、多岐に渡るお話を聞かせていただいた。(お聞きした内容については後のツイートに纏める)
317
『逆潮と時雨も合点 島渡舟』、『昭和五十年三月 高島より土田に移転』 夏の終り、高島を望む丘にある団地にやって来た。高見と呼ばれるこの団地には、高島からの集団離島時、島民の方々が移り住まれたのだ。団地の片隅には一つの石碑が建てられていた。島民の菩提寺である明光寺の句であるという。
318
『高島に行く』それは簡単ではない。島へ渡る手段も、島の現状も全く分からないのだ。夏の盛り、その糸口を掴むために益田市役所に問い合わせた。後日、市役所のKさんから連絡をいただいた。なんと、元島民(以降、島民とします)の方と取り合っていただき、聞き取りの機会を設けてくださったのだ。
319
高島は島根県益田市の沖合約12kmにある。周囲は4km、島は断崖絶壁で囲まれ、平地は全く存在しない。それ故、港と言えるものはなく、小さな船着き場だけが存在する。有人だった当時、アクセスの困難さは国内有人離島の中でもトップクラスであった。『大海原の孤島』と呼ぶにふさわしい島である。
320
地図で見つけた小さな島。昔はこの島に人が住んでいたと知った時、『ここに人が住んでいたのか』という驚きと、『今はどうなっているのか』という疑問が湧いてきたのだ。しかし、ネット上に"現在の高島に関する情報"は殆ど見られない。高島はどうなっているのだろうか。実際に行って確かめるしかない。
321
スレッドにします。 『日本海に浮かぶ小さな無人島』地図上で"点"として描かれたその島は、周囲は断崖絶壁、内陸は緑に覆われ、とても人の住める島には見えない。だが、かつてこの島には人の営みがあった。無人化してから45年経った島の今を記録するために、益田市『高島』へ行ってみた。
322
それでも、最近になって島の再生を目指して若い方が移り住まれた。待ち受けるのは苦難の道かもしれないが、島の未来を切り開くのは若い力だ。行き着く先は無人の島か、それとも島の再生か。『八島』は今、正念場を迎えている。
323
『いずれは無人島になる』そう言われ続ける島がある。平家の落人が辿り着いたとも言われる静かな島。その美しい街並みは徐々に消えつつある。アウトドアに活路を見出そうとした時期もあったが、進む過疎化に打ち勝つことは出来なかった。現在の島民数は25人。時は静かに、そして着実に過ぎていく。
324
『何故、人々はその島に住み続けたのか』その謎を追いかけるために、小さな孤島へと渡った。島の姿は小さいかもしれないが、島に込められた元島民の方々の想いはとてつもなく大きかった。
325
以上で櫃島についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、お世話になりました船長、問い合わせさせていただいた萩市役所の方々、及びお話を伺わせていただいた島民の方にはお礼申し上げます。