R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(新しい順)

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美しき流れの球磨川。しかし、球磨川をはじめとして、大雨災害により全国各地で大きな被害が発生しました。被害を受けられた皆さま方に、謹んでお見舞い申し上げます。
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長い吊橋の向こうには、緑の木々が生い茂る。その木々の中を通る小道。『野鳥の小径』と名付けられた小道沿いには、営みの跡が残っている。ダムの建設により、この地域は大きく変わった。それでも、いくらかの人々はここに住み続けた。しかし、いつしか人は去り、野鳥のさえずる森へと変わった。
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『山村風景は僅かな時間で消えていった』 美しい山村風景は、そこに住む人々によって創られる。それは、そこに住む人々がいなくなった時、山村風景が消えていくことを意味するのだ。
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以上で徳久保集落についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、徳久保について調べてくださった水窪協業センターのご担当の方、及びお話を伺わせていただいた区長ご夫妻にはお礼申し上げます。
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これを見た瞬間、確信した。徳久保には主が住んでいる。もう人の住む場所ではないのだ。神社内に残されたモノは、その警告だろうと解釈した。これ以上の長居は無用だ。足早に徳久保を後にした。この後、脇目も振らずに帰路を急いだ。登りは90分かかった急斜面も、50分ほどで下りきることができた。
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『ネズコの巨木』 徳久保集落を見下ろすかのように、ネズコの巨木が聳えていた。樹齢は800年と言われ、鎌倉時代から徳久保の地を眺め続けている。ネズコの巨木を見学するために色々な人がやって来たそうだ。徳久保に住む人がいなくなっても、ネズコの巨木は何も変わること無く、この地に残り続ける。
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三遠南信の航空写真を眺めていた時、はるか山奥に何かが見えた。よく見ると建物のように見えるが、地図には見当たらない。その立地から山小屋程度に考えていたが、調べてみると、ここには集落があったというではないか。徳久保(とっくぼ)と言われる集落は、一体どのような集落だったのだろうか。
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スレッドにします。 『はるか山奥に何かが見える』険しい山々の連なる三遠南信。この山深い地域の航空写真に何かが見える。地図に記載は無く、とても人が住むような場所には見えない。しかし、そこには地図からは消え、人々の記憶からも消えようとしている集落があった。『徳久保集落』に行ってみた。
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ご存じの方、ご教示ください。この樹皮剥ぎは熊でしょうか? (明日スレッドをツイートします。少々お待ちください)
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スレッドにします。 『秘境駅』と呼ばれる小和田駅。その存在は以前から知られ、ネット上には多くの情報が載っている。ただ、過疎化が進むこの地域の状況は、日々刻々と変化している。地域の現状はどうなっているのか。小和田駅から、一番近い有人集落である水窪町の『塩沢集落』に行ってみた。
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『この道使うべからず』そう言わんばかりに、標識の行き先が消されている。R471・472の楢峠の冬季閉鎖が解除された。早速行ってみると、沿道は釣り客で賑わっていた。
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人里から遥か離れた奥山。樹齢800年とも言われる大木の下には小さな集落があった。地図からは消え、人の記憶からも消えようとしている集落。住人はいなくなってしまったが、今も森の主が住んでいた。
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海からほど近い集落。時代の変化に取り残された集落から人は去っていった。離村しても、人の手が入れば集落の姿は残る。それは、人の手が入らなくなった時、集落が消えていくということでもある。今、残っていた家屋は次々と倒壊している。そんな集落の終焉をお地蔵様は静かに眺め続けていた。
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30年後の人口増減率。全国各地で人口は大幅に減少し、人口希薄地帯からは人がいなくなる。増加するのは都市部でもごく一部の地域だけだ。
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以上で高島についてのツイートは終わりです。今回ご協力いただいた島民の方々、益田市役所のKさん、船長、そして同行いただいた百島氏(@momoshima_jun)、及び鎌手地区自治会のTさん、他1名には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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或る人は『目を瞑れば島を思い出す』と仰る。また、或る人は『虚しくなるから島を見に行けない』と仰る。島民の方々の想いは様々であるが、島で力強く生きてきたという記憶は残る。地図上では"点"として描かれた島であるが、その島には由緒ある歴史、そして島民の方々の想いが今も秘められているのだ。
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更に時は過ぎ…春の初め、再び高見の団地にやって来た。高島で撮影した写真を島民の方々にお渡ししたいと思い、団地取りまとめ役のNさん宅を訪ねたのだ。しかし、残念ながらNさんは不在であった。とりあえず写真は置いてきたが、また団地を訪れることにしよう。団地の桜は美しく咲いていた。
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高島の歴史は苦難に満ちたものだった。しかし、島に住む人々は互いに支え合い、幾多の困難を乗り越えてきた。今、島に住む人はいない。島を離れた人々はそれぞれの道を歩んだ。離島してから45年経ち、島民の方々は歳をとられた。或る人は『島に行きたくても、脚が悪くなって行けない』と仰る。
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高島訪島は終わった。しかし、これで終わることはできない。聞き取り会での内容を纏め、記録として伝えなければならない。そう思い、一つの資料を作成した。リンク先にアップしたので、そちらを参照ください。(見れない方はご連絡ください) drive.google.com/file/d/179GoG3…
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大浜漁港への帰港後、百島氏と高見の団地に寄った。偶然にもNさんがおられたので、高島に行ってきたこと、建物が残っていたことをお話した。すると、Nさんは感慨深そうに『残っていましたか』と仰られた……団地に建てられた石碑が示すように、島民の方々の島への想いは今も昔も変わらないのだろう。
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離れゆく高島。島影を見る限りでは、ここに多くの人々が住んでいたとは到底思えなかった。S.50年3月28日、迎えの船に乗って全島民が離島し、500年とも言われる島の歴史に幕を下ろした。島民の方々は、離れゆく故郷『高島』を見つめて何を思ったのだろうか…
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『船引き場』 迎えの船で、船長が『船の引き上げ場だった』と教えてくださる。島でも唯一断崖の切れる辺りに、小さな防波堤で守られた船引き場があった。有人時代、高島には船を寄せる箇所が3箇所あった。船着き場、ワニノウチ、そしてこの船引き場で、船を引き上げることができるのはここだけだった。
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船着き場に戻り、迎えの船が来るまでの間、本土を眺めた。不思議なことに、本土から見る高島はとても遠くに見えるが、高島から見る本土はすぐそこに見えるのだ。高島の伝承として有名な『お伊勢物語』にある通り、泳いで渡れると思った"おイセ"の気持ちがよく分かる。近くて遠い島。それが高島なのだ。
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海に面した水汲み場。道が崩れて近づけなかった。島民の方々が最も苦労したのは水の確保である。高島は急峻な地形故に、河川が一切無い。長い間、天水と湧き水が水源だった。戦後に入ると徐々に改善され、S.26年に貯水タンク、その後に簡易水道が整備された。それでも豊富に使える量ではなかった。
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集落内には生活の痕跡が散らばっていた。 高島では色々な野菜や果物が栽培され、海藻や魚貝類も採ることができた。しかし、水を必要とする米などは作ることができなかった。それ以外にも調味料や建築資材等、生活用品の大多数は本土に頼っていた。現金収入の手段は限られ、島民の生活は苦しかった。