R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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土佐と銅山川の文化が混ざり合う場所にある集落。新田氏の一門が住み着いたとも言われ、広大な緩斜面を利用して、豊かな耕作地が拓かれた。かつて約20戸あった暮らしは、今では常住3人になった。下界のうだるような暑さはここに無い。あるのは『過疎』という二文字だ。
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『日本三大酷道』を検証してみた。 国道418号線、425号線、439号線は、日本三大酷道と呼ばれることがあります。実際にそうなのでしょうか。まずは、数値で考えてみました。
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『取り残された神輿』 立派な神輿が埃を被る。今、この島に住む人はいない。島が無人になるとどうなるのか。4枚の画像で物語る。
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或る人は『目を瞑れば島を思い出す』と仰る。また、或る人は『虚しくなるから島を見に行けない』と仰る。島民の方々の想いは様々であるが、島で力強く生きてきたという記憶は残る。地図上では"点"として描かれた島であるが、その島には由緒ある歴史、そして島民の方々の想いが今も秘められているのだ。
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『焼畑のムラ』傷んだ観音堂の中には、500年前の十一面観音像が祀られている。そして、裏の急斜面を登った先、鍾乳洞の中には弁財天が祀られている。これほど魅力的な場所でも、観光客は殆ど来ない。次のスレッドのために、再度この村を訪れました。7月初旬~中旬ツイートまで暫くお待ち願います。
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以上で大入集落についてのツイートは終わりです。大入訪問にあたり、大変お世話になりました東栄町教育委員会様、お話を伺わせていただいた東薗目地区のOさん、そして花祭に関して色々ご教授いただいた花祭りだのんさん(@kawagggg)には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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生徒達が走り回っていた校庭には木々が生い茂っていた。教員は2人、生徒は多い時で30人ほどだった。このような僻地では、教育環境を本土並みに整えることは困難であった。それでも、教員の方々は少しでも良い教育を受けさせようと奮闘した。そして、子供達はどこまでも純粋であった。
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標識で富山へ誘導しつつも、富山県へ通り抜けできませんと否定する看板。酷道471・472号の楢峠の冬季閉鎖が解除されました。『これでも天下の国道か?』のインパクトで言えば、日本一ではないでしょうか。楽しくも、危ない峠道です。運転には十分お気をつけください。
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四国山間部の生活道路。四国山間部と紀伊半島は、標高が低いからといって舐めてかかると痛い目を見る。
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船着き場から島を見上げると、巨岩が積み重なっている。その間を縫うように階段が伸びていた。島の玄関がこの光景とは、何ともインパクトがある。階段が整備されたのは灯台建設の頃である。それ以前はどうやってここを登っていたのだろうか。振り返れば、小さな船着き場で数人の方が釣りに興じていた。
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その存在を示すかのように、小さな祠を日が照らす。かつて、ここには神社があった。集落から人が離れて50年。離村後に植えられた木々は、集落を覆い隠すかのように大きく成長した。当時は車道もなく、交通手段は川舟だった。そのような地であっても、元住人の方はこう仰るのだ。『ここは宝の山だった』
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『鶴江の渡し』こと『市道 浜崎鶴江線』 水の都・萩に残る手漕ぎの渡船。橋のない地区を結ぶ、地区住民の大切な足だ。生活に密着した渡船で、且つ手漕ぎの渡船は、国内に殆ど残っていない。しかも、渡船と言っても市道扱いなので料金はかからないのだ。
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船着き場に戻り、迎えの船が来るまでの間、本土を眺めた。不思議なことに、本土から見る高島はとても遠くに見えるが、高島から見る本土はすぐそこに見えるのだ。高島の伝承として有名な『お伊勢物語』にある通り、泳いで渡れると思った"おイセ"の気持ちがよく分かる。近くて遠い島。それが高島なのだ。
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『石造物が溢れる集落』 よほど信仰深い集落だったのだろうか。多くの石造物が立つ集落。画像以外にも数多くの石造物が立つ。しかも、石造物はどれも立派な造りだ。何故これほどまでに石造物を建てるのか。未だに手掛かりを掴めずにいる。
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『白水団地』 後日、川辺川沿いにある白水団地を訪れた。偶然にも、嶽集落に住んでおられたNさんご夫妻にお会いした。当時のお話を伺い、神社の場所も教えていただいた。嶽の神社(日吉神社)は、団地内に移転されていたのだ。神社に向かい、この地に落ち着いた嶽の氏神様に手を合わせる。
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『地方ブロック別でみると、今後「10 年以内に消滅」あるいは「いずれ消滅」と予測されている集落の割合が最も高いのは四国圏である』 それは、あながち間違っていないだろう。
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島民の方からは『学校以外の建物は残っていないのではないか』と聞いていた。しかし、木々の下に一軒の廃屋が現れた。建物は残っていたのだ。先に進むと、学校の校舎も現れた。一方で、完全に潰れた建物も次々と見つかった。この時は一時的に道を見失っていたこともあり、まずは灯台を目指した。
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『水とともにある暮らし』 水の都とも言われる都市に、小さな島がある。中洲のようにも見えるが、人の暮らしがある立派な島だ。未だに橋はなく、島民の方は自家用船で行き来する。古くは江戸時代から続く暮らしが、今もこの島には残る。
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『地図に道が書かれていても、そこに道があるとは限らない』
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等高線が密に書かれた険阻な地形。ここに人が住んでいた。たったそれだけのことだが、惹かれずにはいられない。
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そこに暮らしは残るのか。便利になった現代においても、たったそれだけのことが分からない。信州の山中にある集落に、人の姿を見かけることはなかった。
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ある日を境に人々が去った島。僅かな耕地のこの島では多くの人を養うことが難しく、長い間世帯数が変わることはなかったという。しかし、次第に時代に取り残され、人々は島を出ていくことを決断したのだ。離島から50年経ち、緑は島を飲みこんでいた。それでも人々の営みの跡は消せなかったようだ。
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『山の暮らし』 それは大都市のそばにもあった。近年まで東京都に存在したモノレール集落。ここでは長い年月、山の暮らしが営まれていた。しかし、時代とともに人々は集落を去り、遂には無人の集落と化した。住人の大事な足であったモノレールも撤去された。今、山の暮らしは急速に失われつつある。
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長い吊橋の向こうには、緑の木々が生い茂る。その木々の中を通る小道。『野鳥の小径』と名付けられた小道沿いには、営みの跡が残っている。ダムの建設により、この地域は大きく変わった。それでも、いくらかの人々はここに住み続けた。しかし、いつしか人は去り、野鳥のさえずる森へと変わった。
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『高島燈台』 空に聳える真っ白な灯台。S.41年初点。高島周辺は海の難所であり、灯台ができるまでは度々事故が起きていた。道路も重機も無い高島において、建設は概ね手作業であり、島民の方々もアルバイトで従事していた。島が無人化してからも、海上保安庁の方が定期的に保守されている。