R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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『野武士の墓と甘藷塚』 灯台へ向かう道の脇には、野武士の墓と言われる観音岩と、芋代官の井戸正朋を尊う甘藷塚がある。高島のルーツには、出羽武士の亡命説、出雲馬木城武士の漂流説、茶臼山城水軍の逃亡説の3つの謂れがある。何れにせよ、戦国時代に逃げ落ちた武士が住み着いた説が有力である。
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『高島分校』 コンクリートブロック造りの校舎は無残な姿を晒していた。木造の講堂にいたっては姿を消していた。全島民の離島時に廃校となった益田市立鎌手小学校・中学校の高島分校。元々は集落の入口にあった2階建ての民家を校舎としていたが、老朽化によりこの校舎がS.37年に建てられた。
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戦後、ムラは大きく変わった。ムラだけではない。ダンナとムラの人々の関係も、焼畑の暮らしも、その殆どが変わった。変わらないのは、ムラの記憶だけだ。『地図に描かれた神社記号』たとえ神社がなくとも、地図上の記号は無意味なものではない。そこにあったムラの姿を今に伝える大切な記号だった。
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『神様のいない神社』 地図に描かれた神社記号。そこには確かに神社と思われる建物があった。しかし、建物の中に氏神様の姿は見当たらない。代わりに、ホースやトタンが散乱している。倉庫として使われているようだ。嶽集落には氏神日吉神社が祀られていたはずだ。神様は何処へ行ってしまったのか。
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ここに、過去の航空写真を示す。地図中に示す三軒の家屋は辛うじて姿を留めていたが、どう見ても住める状態ではない。45年を経て、多くの建物が倒壊し、残った家屋も朽ち果てるとは、 高島の自然環境の厳しさを窺い知ることができる。家屋の殆どは平屋建てであったが、2階建ての建物もあったようだ。
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酷道471・472号の楢峠。去年に続いて、今年もトラックが突っ込み脱輪してしまう。現在通行できませんのでご注意を。 twitter.com/hirokun_shisho…
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桜の咲く頃、大入集落と山を一つ挟んだ東薗目地区を訪ねた。大入関係者であり、大入の本も出版されているOさん(S.3年生)からお話を伺えることになったのだ。50年近く大入のことを調べておられるOさんのお話は大変貴重なものだった。リンク先にお聞きした内容を纏めます。 drive.google.com/file/d/1js32eO…
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島民数13人の美しい島。島内にある大きな家々は、移住した人たちの仕送りで建てたのだという。しかし、その多くは荒れ果てた。島の区長は仰る。『もし病気になった時、誰かの船で行く。今までは若かったから時化でも船を出した。歳を取るとそれができなくなる。口で言うもんじゃない。現実は厳しい』
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蒼い海と小さな島。島の分校が休校になってから12年。分校は再開されることなく廃校となった。今、島に住むのは4人。島の現状は、島のあちこちで感じ取ることができる。それでも、島民の方々はとても明るく、優しかった。この島にあったのは寂しさでも侘しさでもない。『小さくも美しい島の姿』だった
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地理院地図の航空写真でも上位に入る美しさ。その美しさに惹かれて、現地へと向かう。集落には多くの家屋が立ち並ぶが、住人数は5戸5人。住人数の減少により村営バスは廃止され、多くの耕作地が放棄されていた。航空写真に写っていたのは、厳しい現実だった。
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無人の集落をモノレールが行く。四国山地の『モノレール村』こと、旧・一宇村。40年前の航空写真にあった多くの家屋と耕作地は、その殆どが姿を消していた。村内にある32集落のうち、19集落はいずれ無住化するという。この集落は一足先に消えていたのだ。
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スレッドにします。 紀伊半島の山の中、小さな村の小さな団地。航空写真で見る限り、同じ一軒家が立ち並んでいる。そして、その約8km上流の山奥に位置する集落。急峻な谷間にいくつかの家屋が点在している。それらは共に"瀬戸"という。何故二つの"瀬戸"があるのか。川上村の『瀬戸集落』に行ってみた。
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『集落跡』 狭い路地のような階段だが、これが島のメインストリートだった。両側には家々が立ち並び、その先には日本海を眺めることができた。高島を紹介する写真の多くは、この道を写している。しかし、月日を経て、立ち並んでいた家々、そして日本海の眺めは消えてしまった。
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こうして地図にしてみると、紀伊山地、四国山地、三遠南信等、国内でも『秘境』と呼ばれる地の多くは、中央構造線沿いに位置することが分かる。
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島の至るところに大きな穴が空いている。オオミズナギドリ(ウガチ)の巣穴だ。高島には様々な動物が住み着いていて、巨大な蛇を見た人がいるという。有人時代は、犬、兎、鶏、ヤギなどを飼っていた。もちろん、猫もいた。今でも山猫が住んでいて、岩場に子供を生んでいるそうだ。
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階段を登った先には、緑のトンネルが待ち受けていた。それは未知なる島への入口のようであった。緑のトンネルは、深い木々によって薄暗く、その中を道が続いていた。草が刈られているところを見ると、灯台の保守のために使用されている道のようだ。脇には空き瓶が転がっていた。
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更に後日、ヒストリアテラス五木谷(五木村歴史文化交流館)を訪れた際に、学芸員のFさんから嶽集落や五木村についてのお話を聞かせていただいた。リンク先に、Fさん、Nさんにお聞きした内容を纏めます。(PDFファイル38.9Mbyte) drive.google.com/file/d/1vvYkSe…
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『実走!酷道・険道のまとめ』を大幅改訂しました。リンク先にアップしましたので、どうぞご利用ください。(Googleドライブ:22MByte) drive.google.com/file/d/1X6jIW6…
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暗闇の中、渡船3隻が並んで高島へと向かう。これら渡船の船長は高島関係者でもある。乗船した船の船長からはこう伝言される『灯台のそばに梅の木がある。どうなっているか見てきてくれ』 ※高島には高島関係者以外、無断で上陸することはできません。また、危険な箇所も多数あります。
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『五木の子守唄』の発祥地として知られる五木村。熊本県の南部、川辺川沿いに位置する。現在の人口は、490世帯1025人。村全体が山岳地帯のため、村内の集落は川沿いの僅かな平地、または緩斜面上に存在している。目指す嶽集落は、村の中央部、入鴨谷から標高差で300m上方の山上にある。
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大浜漁港への帰港後、百島氏と高見の団地に寄った。偶然にもNさんがおられたので、高島に行ってきたこと、建物が残っていたことをお話した。すると、Nさんは感慨深そうに『残っていましたか』と仰られた……団地に建てられた石碑が示すように、島民の方々の島への想いは今も昔も変わらないのだろう。
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地理院地図に見える神社のマーク。そこには一体何があったのか。 今回は大入集落のスレッドをご覧いただきありがとうございました。次のスレッドを何処にするのかは決めていませんが、5月中を目処にツイートする予定です。しばらく先になりますが、どうぞお待ち願います。
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薄明かりに高島の島影が見えてきた。まるで人を拒絶するかのような断崖に囲まれている。何とも恐ろしい島だ。断崖は、島の南側で10m、北側にいたっては40mもの高さがある。かつてこの島には人の営みがあった。それが事実だと分かっていても、ここに広がる風景からは全く想像することができない。
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スレッドにします。 長崎県中央部に位置する大村湾。外海とは針尾瀬戸によって僅かに繋がるのみで、あたかも巨大な湖のようである。その湾内には多数の離島が存在するが、情報極少の謎多き離島は少なくない。そのうちの一つ、僅かニ世帯の有人島である『竹ノ島』に行ってみた。
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離れゆく高島。島影を見る限りでは、ここに多くの人々が住んでいたとは到底思えなかった。S.50年3月28日、迎えの船に乗って全島民が離島し、500年とも言われる島の歴史に幕を下ろした。島民の方々は、離れゆく故郷『高島』を見つめて何を思ったのだろうか…