R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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"ひの字渓谷"展望所に戻ってきた。紅葉時期とあって、多くの観光客が行き交う。その中で田丸集落を眺めていた。絶海の孤島、遥かな山奥、どんな場所であっても人は住む。人が住むからには始まりがある。田丸の始まりははっきりしない。村史には、喜多源内の直轄地とある。ただ、Rさんはこう仰るのだ。
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高島は島根県益田市の沖合約12kmにある。周囲は4km、島は断崖絶壁で囲まれ、平地は全く存在しない。それ故、港と言えるものはなく、小さな船着き場だけが存在する。有人だった当時、アクセスの困難さは国内有人離島の中でもトップクラスであった。『大海原の孤島』と呼ぶにふさわしい島である。
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石鎚村に通じる愛媛r12(西条久万線)で加茂川上流へ向かう。加茂川沿いにはいくつもの集落があるが、そのいずれもで過疎化が進んでいる。しばらく走ると、『河口集落』で道は二手に分かれる。道なりに進めば石鎚登山ロープウェイへ至るが、ここは右手の愛媛r142(石鎚伊予小松停車場線)へと進む。
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少々早いですが、今年のツイートはこれを最後とさせていただきます。今年一年、ツイートをご覧いただき、有難う御座いました。また、ツイートの頻度低下・返信が遅くなり申し訳ありませんでした。来年は早々に田丸集落のスレッド、酷道・険道pdfの改訂版配布を予定しています。それでは良いお年を。
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『刀の眠る本殿』 たった一人、この神社を管理する人がいる。今年一年、皆様には多くのことをご教授いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。また、私の力不足ゆえ、スレッド化できたのは谷折、尾島、猿江、元之庄の4箇所だけでした。多くの情報をいただきながら纏めきれず申し訳ありません。
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航空写真では分からなかったが、木々の下には石垣がどこまでも続いていた。その様は城壁を想像させる。ただ、下黒川に残る家屋は無く、全て倒壊していた。下黒川の先には、黒川道沿いにS.4年まで分校があったが、痕跡を探し出すことはできなかった。
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山上にある集落の小さな縁日。この日ばかりは集落に賑わいが戻る。住む人はいなくなったが、今も続けられる縁日。一度失われると、取り戻すのは容易ではない。続けていくことが大切なのかもしれない。
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『出生数0の自治体』 国内の総人口が減少している中、出生数0の自治体も出てきている。特に、野迫川村にいたっては、2019年、2020年、2021年と3年連続出生数0だ。このままでは自治体が消滅してしまう。子供がいなければ、未来は築けない。
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『赤瓦の美しい家屋が立ち並ぶ』 航空写真で見つけた山中に孤立した集落。現住は一世帯二名。しかし、集落は多くの人に支えられ、昔ながらの姿が残る。航空写真、ネット上では分からない風景がそこにはあった。
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素人質問ではありますが、ご教示ください。地理院地図において、無人になっても記載が残る集落があります。その一方で、地図上の記載すら消滅している集落もあります。無人となった集落を地図に残す、残さないの基準はあるのでしょうか。
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石鎚村は、愛媛県の東予地方、石鎚山の麓にあった。元々は千足山村と呼び、S.26になって『石鎚村』へと改称されたのだ。その後も、S.30に小松町に合併され、更にはH.16年に西条市に合併されて今に至っている。
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では、黒川集落が無住化したのはいつだろうか。今回、石鎚村では、住人の方に出会うことはなかった。周辺の集落で聞き込みを行い、大保木村(現・西条市)東之川出身の方にお話を伺うことができた。それによると、『はっきりとは覚えていないが、S.50年代だったよ』とのことだった。(画像は東之川)
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遙か山奥の集落へと向かう古道。今、この道を歩く人はいない。しかし、多くの人々が歩んだ道は、その長い歴史とともに、簡単に消えることはない。
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『衰退から消滅へ』 地図に描かれた建物の記号。ここに描かれた全てが無住だ。S.35年1008世帯4175人いた住人は、現在39世帯59人。村の中心はダムで沈み、地域を支えた基幹産業は時代と共に消えた。今、この地域に残るのは僅かな暮らしだけだ。もはや地域の衰退ではない。地域の消滅である。
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古くは平安の頃、花山天皇が入水したと伝えられる谷間の奥深く。その子孫とも言われる人々の住む集落があった。集落の人々は『花山』性を名乗り、神社は『花山』神社と呼ばれた。集落から人々が去ったのは、60年かそれ以上昔のこと。それでも営みの跡は消えることなく、伝説の地に残り続けていた。
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『黒川集落(下黒川)』 植林帯を20分ほど登った頃、周囲に石垣が見えてきた。どうやら黒川集落(下黒川)に着いたようだ。黒川集落は2つの部落に分かれていて、下流の部落は下黒川、上流の部落は上黒川と言われる。現代の地図上から消えてしまったが、確かにここには集落があったのだ。
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『黒川集落(上黒川)』 黒川道沿いにある三界地蔵と石灯籠。この先に上黒川はあった。上黒川も下黒川と同様に、薄暗い森の中に石垣と平場が続いている。ただ、下黒川と異なるのは、二軒の家屋が残っていることだ。もちろん、無人となって随分経つので、建物は相当傷んでいる。
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『一軒家の残る集落』 富山県の或る集落を2年ぶりに訪れた。美しい集落の姿は、2年前のままであった。常住する人はいないが、今も元住人の方が通われる。応仁2年、祖先が飛騨国高原郷から移住し、この地を拓いた。集落は一軒だけになってしまったが、550年とも言われる歴史は途絶えることなく続く。
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どこまでも続くお墓。この島に多くの人が住んでいたことの証だ。現在の住人は13人。その殆どが70歳以上。緑は生い茂り、大きく立派な家々を呑み込む。それでも、この島に悲壮感はない。明るく、優しく、素晴らしい島だった。
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土佐の山あいにある小さな旅館。建屋の一部は築100年を超え、風呂は薪で沸かす。女将さんは現在90歳。旅館を1人で切り盛りする。昔、林業が盛んだった地域で、旅館は行商人で賑わったという。女将さんが旅館に携わってから65年。時代とともに町は変わった。それでも女将さんは、今日もお客を迎え続ける
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島から消える耕作地。人の手によって造られた美しい緑色は、荒れた緑色へと変わった。国内の有人離島は416島。この島もそのうちの一つなのである。
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『対岸に描かれた集落』 豊富な雪解け水が流れる大河。この大河を挟んだ100m先には集落があるはずだ。しかし、対岸に渡る橋は無い。どのように集落に向かうのか。その謎を紐解くうちに見えてきたのは、川と共にあった暮らしと、消えた祭祀の存在だった。
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この山道は"黒川道"と呼ばれる。つづら折れで一気に高度を上げた後は、緩い斜度で森の中を登っていく。ところどころに舗装が残り、集落への重要な道であったことが伺い知れた。石鎚登山ロープウェイができる前は、石槌山への表参道として、並行する今宮道と共に石槌山へのメインルートでもあった。
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四国山地にある航空写真に写らない集落。木々の下に隠れるように存在する。神社、祠、山道と、その立派さには驚かされるが、この集落を知る人はごく僅かだ。
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以上で徳久保集落についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、徳久保について調べてくださった水窪協業センターのご担当の方、及びお話を伺わせていただいた区長ご夫妻にはお礼申し上げます。