R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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『船着き場』 船の舳先から巨岩に飛び移って高島に上陸する。高島に港はない。あるのは小さな船着き場だけだ。現在の船着き場は集団離島後に整備されたもので、それ以前は更に小さな船着き場だった。S.41年の灯台建設前は船着き場すらなく、波のタイミングを見て岩場に飛び移るしかなかった。
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過去、五木村は焼畑の村であり、村中に焼畑が広がっていた。また、村内にある33のムラ(集落)では、ダンナと呼ばれる地頭を中心にムラの家々が階層化され、封建的主従関係とも、相互扶助関係とも言われる間柄を築いていた。山々によって外部から隔離された村で、独特な民俗文化が形成されていたのだ。
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R157は本日開通しました。岐阜県~福井県の通行が可能です。また、R471・472楢峠は6/3開通予定です。ただし、状況によっては変わるかもしれません。(画像は過去のR157です)
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『嶽集落』 ある日突然住人が消え去ったかの如く、家屋は当時ままで朽ちていた。神社の下には家屋が立ち並ぶ。集落内は植林されることもなく、明るい日差しが差し込む。古くは6戸あり、長い間変わることはなかった。集落の人々が協力して運んだという電柱が立ち、伸びる電線はどこかへと消えている。
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『花山神社』 社が無残な姿を晒す。境内に刃物を入れてはいけない言い伝えがあるので、荷物を置いて境内に入った。古くは大入の古屋敷にあり、明治初年に現在の地に移された。寛仁年代の棟札が見つかっているので、千年の時代を超えてきたことになる。しかし、 この姿が見られるのもあと僅かだ。
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高島の歴史は苦難に満ちたものだった。しかし、島に住む人々は互いに支え合い、幾多の困難を乗り越えてきた。今、島に住む人はいない。島を離れた人々はそれぞれの道を歩んだ。離島してから45年経ち、島民の方々は歳をとられた。或る人は『島に行きたくても、脚が悪くなって行けない』と仰る。
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『四国4県のいいところ』 聳える山々も、美しい流れの川も、綺麗に広がる海も、全ての要素が四国各県に揃っているところだ。
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足跡を辿って、法面の上をそっと渡る。この先、車がダメなら歩けばいい。車を置いて、嶽集落までの4kmを徒歩で向かう。崩落箇所からの道は、土砂崩れや土石流で悲惨なことになっていた。それでも、標高を上げるにつれて地形が穏やかになり、1000mを超える峰々が視界に入ってきた。何とも山深い場所だ。
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程なくして島民の方が来られたので、ご挨拶させていただいた。先のツイートで『櫃島の人口は2名』と書いたが、実は櫃島に常住者はいない。島民の方は、耕作のために本土から通っておられるのだ。これが『櫃島が無人島になるのも間近い』とされる所以である。無人島に限りなく近い島、それが櫃島だ。
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時は過ぎ…秋の初め、夜明け前の大浜漁港に4人のメンバーが集まった。百島氏(@momoshima_jun)、鎌手地区自治会のTさん、他1名、そしてR774。渡船は大浜から出る。高島は磯釣りのメッカであり、平日であるにも関わらず、多くの釣り客がいる。この釣り客に混じって高島へと向かった。
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『道が無い』 嶽集落まで距離はあるが、車であれば時間はかからないだろう。そう思っていた矢先、目の前の道が無い。道が綺麗に落ちていた…まだ1kmしか進んでいないが、早くも嶽への訪問は断念なのか。冷静になって周囲を見渡す。やはりあった。危なげな法面の上に、はっきりとした足跡が続いている。
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『一体の狛犬』 集落の神社は潰れ、一体の狛犬が取り残されていた。もう一体の狛犬は何処へ行ったのか。約40年前に無住化した大きな集落。どの家も立派な作りで、豊かな集落だったと想像できる。しかし、豊かさがあっても時代の流れには敵わなかった。今も残る家々は辛うじて当時の姿を留めていた。
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45年前、嶽集落に車道は無かった。しかし、最近の航空写真では真新しい林道が見える。この道を辿れば、嶽に向かうのは難しくなさそうだ。国道445号から林道に入る。舗装はすぐに途切れ、ダート路面が続く。真横を流れる横手谷は激しく荒れ、砂防ダムに大量の土砂が堆積している。一体何があったのか。
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集落内には生活の痕跡が散らばっていた。 高島では色々な野菜や果物が栽培され、海藻や魚貝類も採ることができた。しかし、水を必要とする米などは作ることができなかった。それ以外にも調味料や建築資材等、生活用品の大多数は本土に頼っていた。現金収入の手段は限られ、島民の生活は苦しかった。
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五木村は、平家の落人、或いは源氏一門が住み着いた村と言われる。嶽集落の始まりは分からないが、焼畑のために人が住み着いたと考えられる。その後、人々が集まり、この地に落ち着き、ムラ(集落)を作った。それから長い年月、嶽の人々は幾度の災害や厳しい環境の中で焼畑の暮らしを続けてきたのだ。
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山の中へと車を走らせる。次々と現れる集落。しかし、そのいずれもが無住の集落だ。学校も、郵便局も、商店も、全てが無用の長物と化していた。一時間ほど走った頃、ようやく人の気配のする集落に辿り着いた。それでも住む人はごく僅かだ。過疎化の進む地域は多いが、これほど酷い地域はなかなか無い。
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廃屋が立ち並ぶメインストリート。どことなく風鈴の音が聞こえてくる。どの家屋も立派な造りをしているが、その殆どが荒れ、無住化してからの月日を感じる。また、多くの蔵には乾燥機があり、葉タバコ栽培が盛んであったことが窺える。人影は無く、唯一真新しい櫃島交流施設だけが異彩を放っていた。
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※大入集落への山道は、荒廃しているため大変危険です。また、熊の目撃情報が多く、道のりの大部分が私有地のため、通行が禁止されています。
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島に平坦地はないが、灯台の西側にヘリコプターが着陸できるくらいの開けた場所があり、畑が広がっていた。しかし、今では緑に埋め尽くされて見る影もない。そして、船長から頼まれた梅の木も探し出すことができなかった。人の手が入らなくなった土地は、緑に侵食されてしまう運命なのだ。
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愛知県北東部に、かれこれ10年以上通行止めの『開かずの県道』がある。県道は、険阻な渓谷の中にあり、沿道に人の営みは全く見られない。しかし、最新の航空写真には、県道から300m上方に不自然な窪みと人工林が写っているのだ。過去の地図と照合すると、『大入』という集落が描かれているではないか。
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長い歴史を誇り、今も多くの人を魅了する小俣集落は、朽ち果て、土砂の下へ埋もれようとしていた。今後も背後斜面の崩落が続くことが予想され、集落が埋め尽くされるのも時間の問題だ。そう遠くない未来、小俣集落は名実ともに『幻の集落』となり、伝説の一つとして語り継がれていくことだろう。
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『ダム湖に沈めなかった集落』 昭和31年、暴れ天竜に完成した佐久間ダム。この巨大ダムによって、天竜川は全長33kmの長大なダム湖となり、多くの集落がダム湖に沈んだ。写真に写る佐久間町の山室(やんぶろ)集落もその中のひとつだった。
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『集落』 島の内陸には果樹園が広がっていた。木々には多くの甘夏が実っている。果樹園は今も手入れされているようだ。その先にはいくつかの家屋が見える。賑やかだった波の音は聞こえなくなり、周囲は静まり返っている。ここが海に囲まれた島であることを忘れてしまうような情景だ。
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長い道程の先に集落があるという。しかし、そこあったのは、大量の土砂に呑み込まれた集落だった。それは、まるで集落の存在を隠すかのようであった。
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更に時は過ぎ…春の初め、再び高見の団地にやって来た。高島で撮影した写真を島民の方々にお渡ししたいと思い、団地取りまとめ役のNさん宅を訪ねたのだ。しかし、残念ながらNさんは不在であった。とりあえず写真は置いてきたが、また団地を訪れることにしよう。団地の桜は美しく咲いていた。