R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

126
地図で見つけた小さな島。昔はこの島に人が住んでいたと知った時、『ここに人が住んでいたのか』という驚きと、『今はどうなっているのか』という疑問が湧いてきたのだ。しかし、ネット上に"現在の高島に関する情報"は殆ど見られない。高島はどうなっているのだろうか。実際に行って確かめるしかない。
127
田丸橋付近では、倒壊家屋、耕作地跡、墓跡が見られた。田丸集落と言っても、家屋は標高300mと600mの2箇所に集まっていた。標高300mの田丸橋付近には二軒の家屋があり、その様子は当時の航空写真からも窺い知ることができる。この先、標高600mに向けて誰も来ることがないであろう山道を登っていく。
128
それはあり得ない。尾根から斜面を下る段階になると、山道は豹変した。急斜面を横切る山道は、滑落しようものなら谷底まで落ちてしまう。しかも斜面と同化して、道筋が分からない。何度も迷いながらも吊橋が見えてきた。結局、直線距離で200m、標高差100mを進むのに、30分以上要してしまった。
129
三遠南信に残る生きた鉱山の『三信鉱工』。手作業で敷設した5kgレールが伸びる。大規模な鉱山ではないため、多くの作業は手作業なのだ。
130
キリシタン集落にあった失われた教会。多くのキリシタン集落がそうであったように、集落は険しい地形にあり、耕地には恵まれなかった。そのため、高度経済成長期の人口流失は激しく、昭和50年代に集落は消滅した。今では教会は崩れ去り、ここが教会だと知る人は殆どいない。
131
『前田丘バス停』 何もない山の中にバス停がある。かつて、田丸集落の方々が利用していた名残りだろう。ここから田丸へ行けると聞いていた。確かに、道路脇から尾根道が伸びている。準備して尾根道へ向かう。バス停からの尾根道は、傾斜もなく歩きやすい。意外と楽に田丸へ辿り着けるのかもしれない…
132
山の中にポツンとある集落。そこにはどんな風景があるのだろうか。たったそれだけのことだけど、旅のきっかけには十分なのだ。
133
『田丸集落』 前田丘から2時間半。生活用品の散らばる耕作地跡を越えると廃屋が現れた。風が轟々と吹き、対岸からは車やバイクの音が聞こえる。三方向とも明るく、尾根上に出たことがはっきりと分かる。かつての田丸は、傾斜が緩くなった尾根上と周辺に耕作地があり、その中に家屋が点在していた。
134
平家の落人伝説が残る祖谷地方。どこまでも続く山々と険しい谷間、そこに息づく人の営みからは、落人伝説を連想せずにはいられない。西祖谷山村(現・三好市)は、全域が深い谷間にあり、急な斜面に僅かな耕作地と、昔ながらの家屋が点在している。田丸集落は、村中心部から近い場所に位置するのだが…
135
『何故、人々はその島に住み続けたのか』その謎を追いかけるために、小さな孤島へと渡った。島の姿は小さいかもしれないが、島に込められた元島民の方々の想いはとてつもなく大きかった。
136
長い間、集落を眺め続けてきたお地蔵様。誰よりも集落のことを知っている。兵庫県の山間部。住民基本台帳では1世帯2人の集落。 多くの墓標が、かつての賑やかさを物語る。今、誰にも知られることなく、集落は終わりを告げようとしている。
137
『たったの10年』で住人は随分と少なくなった。紀伊半島南部、古座川町最奥部にあたる小森川集落。現在の住人数は高齢者が3名。神事を行うことすら困難になった。美しい川の流れに、風格ある神社。そして人々の営み。深い山奥に残るこの美しい風景も、いずれは過去のものになっていく。
138
『田丸集落まで辿り着けるのだろうか』徳島県道32号線沿いの"ひの字渓谷"展望所から田丸の方向を眺める。祖谷川からの比高は約100m。この険しい谷間を見た時、不安を覚えずにはいられなかった。ただ、今回は事前に"とある方"から田丸についての情報をお聞きしていた。行けるところまで行ってみよう。
139
河口集落から約800メートルの場所にある『虎杖(いたずり)集落』。僅かな期間、この集落には石鎚村の役場があった。いわゆる村の中心部であったのだが、今は住む人もおらず、怨念に満ちた農協跡が残るのみだ。ここから黒川集落への車道は無いため、登山道とも言える山道を辿ることになる。
140
"40年前の航空写真にあったいくつもの家屋"は全て朽ち果てていた。多くの参拝客で賑わっていた『黒川集落』。S.43年の石鎚登山ロープウェイ開通により黒川道を通る参拝客は激減、それをきっかけにして集落住人は次々に山を降り、ついには集落から人の姿は消えてしまったのだ。
141
『住人数0人』ダート林道の先にある集落。航空写真では緑に染まる。深山に佇む集落は、かつて、林業と共に大いに賑わった。しかし、林業の終焉は、集落の終わりを意味していた。今、常住する人はいなくなり、僅かな人が通い続ける。四国山地に見られる風景の一つである。
142
石鎚山へ至る参道沿いの集落として賑わった黒川集落は、下黒川、上黒川合わせて多い時で約30軒の家屋があり、その殆どが参拝者相手の季節宿(民宿)を営んでいた。今も残るのは二軒の家屋のみだが、共に当時の賑わいを感じさせる立派な建物だ。この二軒も季節宿を営んでいたのだろうか。
143
この『河口集落』は石鎚村の入口でもある。元来、石鎚村は農林業が主体で、石槌山への登山口としても賑わっていた。しかし、農林業の衰退、交通機関の発達による参拝ルートの変化により村は衰退した。2014年に、この先の中村集落に住んでおられた老夫婦が山を降り、石鎚村の住人はいよいよ一人になった
144
黒川集落からの帰り道、石鎚村のいくつかの集落に寄ってみた。当然、どの集落にも人の気配はなく、残された家屋は荒れるに任されていた。唯一、この地域に最後まで住んでおられた中村集落だけは、今も人の手が入っているようであった。現在、石鎚村に残る住人は一人だけだ。
145
つづら折りの山道が続く。ザレ気味で傾斜もきつい。それでも、先程の前田丘から祖谷川までの下りに比べると全然歩きやすい。登り始めて1時間経ち、周囲が明るくなってきた頃、対岸の方向へワイヤーが伸びていた。"とある方"のお話では、前田丘に野猿があったそうなので、その遺構かもしれない。
146
『何故ここに建物があるのか』 地理院地図に建物の記号が一つ描かれている。たったそれだけのことだが、こんな立地では気になって仕方がない。
147
上黒川にある"地すべり危険箇所の看板"には、神社が描かれていた。早速、神社へ向かってみる。最初こそ分かりやすかった神社への道は、次第に怪しくなってきた。道を間違ったかな…そう思い始めた頃、鳥居が見えてきた。
148
『酷道・険道の宝庫』 全国各地でよく聞く言葉だが、実際には何処が『酷道・険道の宝庫』なのか?全国データ(国道・都道府県道限定)を見てみよう。
149
酷道471・472号の楢峠。峠付近は、紅葉が最盛期を迎えています。峠の気温は2℃。冬はすぐそこまで来ていました。
150
『闇へと伸びる吊橋』 その吊橋は見るからに頼りなく、できることなら渡りたくない。しかし、渡らなければ闇の中は分からない。闇に向かって一歩を踏み出す。