R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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『大歳宮』 社殿は倒壊し、2つの鳥居は大きく傾いていた。地図に描かれた神社記号の場所には、確かに神社があった。島が売却された後、神社を訪れる人は皆無だったのか、酷い荒れ具合だ。御神体は島民とともに本土に渡ったのだろうか。神社の存在が人々から忘れ去られるのも、そう遠くなさそうだ。
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まずは学校跡へ向かった。昔の航空写真から、尾島の学校は港近くにあると分かっていた。確かに、港から校舎の屋根が見える。距離にして僅か100mだが、濃い藪が行く手を塞ぐ。藪を掻き分けて進むが、校舎が近づくにつれて藪の密度が濃くなる。何度も藪に押し返されながら前進を続ける。
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田丸集落への訪問は困難だと思っていた。しかし、半年前、"とある方"にコンタクトを取らせていただいてから話は進んだ。"とある方"とは、御主人が田丸出身のRさんである。今回Rさんから伺った内容、更に後日、西祖谷山村の方々から伺った内容について、リンク先に纏めます。 drive.google.com/file/d/1WNHEHs…
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『妙見神社』 倒木に直撃されたのか、神社は無残な姿になっていた。ささやかなお供えをして手を合わせた。これは、"とある方"からのお願いだった。田丸のご先祖様は、隠れ里とも言えるような土地で長い間、力強く暮らしてきた。住む人はいなくなったが、今も田丸の地を想う方々がおられるのだ。
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夜明けの尾島。釣り客に混じって尾島へやって来た。巨大な丸石を積み上げた港へ降り立つ。小さな島にしては立派な港だ。港から島を見渡す。青く美しい海とは対象的に、内陸部に見えるのは濃厚な藪、藪、藪……あまりの藪の激しさに少々怖気づくが、考えていても仕方がないので藪の中に入り込む。
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続いて、家屋が立ち並んでいた辺りに向かった。しかし、家屋は見当たらない。尾島が無人化したのはS.47年10月。全島民の離島時、家屋は壊されることなく、そのままで残された。離島から50年経ち、全てが朽ち果てたのだろうか。半ば諦めつつ藪の中を進む。不意に藪が開け、何かが見えるではないか。
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様々な想いの中、島民は尾島を売却し、本土に移住することを決めた。島民は、島の市・県による買収、買い手の斡旋などを市に要望し、S.47年10月全島民が島を出た。その後、島は入札を経て、7600万円で落札された。尾島は現在も開発されていない。落札した業者によれば、今後も開発予定はないという。
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『尾島の墓標』 墓標のように太い柱が立っていた。太さからして、葉タバコ乾燥庫のようだ。碍子や電線など、暮らしの跡も散らばる。尾島の戸数は、多い時で10戸。S.29年に自家発電が始まり、S.41年に海底経由の給電開始、共同電話もS.36年に開通した。ただ、定期船が来ることは一度もなかったという。
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尾島は、萩市街地の北西約10kmに浮かぶ、面積0.34平方kmの小さな島である。島は溶岩台地から成り、その姿は平べったく、南側の砂浜を除いて周囲を海蝕崖に囲まれる。元々は、尾島、羽島、肥島、大島、櫃島、相島の6つの島で六島村を構成していたが、S.30年に萩市に合併され、現在は萩市に属している。
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スレッドにします。 『秘境駅』と呼ばれる小和田駅。その存在は以前から知られ、ネット上には多くの情報が載っている。ただ、過疎化が進むこの地域の状況は、日々刻々と変化している。地域の現状はどうなっているのか。小和田駅から、一番近い有人集落である水窪町の『塩沢集落』に行ってみた。
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尾島での暮らしは、苦労の連続であった。特に、港整備による多額の費用負担、自家発電の負担など、小さな離島という環境面における島民の負担は重かった。それでも島民たちは協力して困難を乗り越えてきた。しかし、乗り越えられない困難があった。寄宿舎創設により、子供たちが島を出ていったことだ。
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『無人島』 美しい海岸線の先に深い緑が生い茂る。しかし、過去の航空写真には、学校、グランド、そして多くの家々が立ち並ぶ。島の姿はどこに消えたのか。それらは全て緑の中に消えたのだ。
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僅かな面積の尾島では、多くの人を養うことはできない。一方で、葉タバコ等の畑作は多大な労力を要するため、子供たちも労力の一端を担っていた。その子供たちが島を出ていったのだ。労働力は減少し、生産量も減った。島民たちは出稼ぎに出たが、出稼ぎによる人口流出は島の共同作業を困難にした。
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酷道・険道走行の4原則とは
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以上で『地図に描かれた神社記号』についてのツイートは終わりです。嶽集落訪問にあたり、大変お世話になりましたNさん、Fさん、そしてお話を伺った五木村の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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スレッドにします。 『道路はないが、モノレールはある』険しい谷間に位置する村に、道路を造ることは容易ではなかった。故に、村内の集落には索道が発達し、それはモノレールへと姿を変えた。昔の航空写真に写るこの集落にも、モノレールが通っているという。一宇村『大横集落』の今を訪ねてみた。
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それは40年前の航空写真を眺めていた時だった。山の中に不思議な集落があることに気がついた。集落は尾根筋に存在し、いくつもの家屋が綺麗に密集していた。それにも関わらず、現在の地理院地図、航空写真の双方からその存在が消えているのだ。この集落は一体何なのか。
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尾島が歴史に現れるのは元文5年で、9戸、47人とある。平家落人の伝承や、尼子家遺臣供養の念仏行もあるが、それ以前の記録は残っておらず、六島村の他島に比べて歴史が浅い。このことより、尾島での暮らしの始まりは他島より遅いと考えられ、始まりのきっかけが他島からの出耕作だったとも考えられる。
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田丸橋が落ちていることは知っていた。橋がなければ渡河するしかない。田丸集落に行けるか否かは、祖谷川の水量次第だ。更にマムシも多いという。晩秋を狙ったのはこのためだった。幸いにも水量は少なく、20cm程度と浅い。これは行けると、慎重に渡河する。川底は苔で滑りやすく、水がとても冷たい。
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『何故ここにバス停があるのか』 人気のない山の中にバス停がある。しかも、乗り降りする人がいないような場所だ。山中の道路を走っているとき、このような場面に出くわすことは多い。では、何故バス停があるのか。その答えは険しい谷間の先に隠れていた。
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『田丸は、平家の落人さんの集落です。なので、祖谷温泉がある祖谷街道からは家や人の営みは見えない作りになっていたそうです。敵に見つかれば襲撃されますし、だからこその、あの田丸橋なのです』
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日本有数の巨大ダムである佐久間ダム。S.31年に完成した際、富山村中心部より下流の集落は全てダムに沈んだと思っていた。それは間違いだった。ダム湖面より上の集落は沈まずに済んだのだ。地図に示す場所にも沈まずに済んだ集落があった。しかも、今も神社が残り、集落出身の方が時々来ているという。
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『滑走路のあった島』 約100年前、僅か4日で滑走路が作られ、飛行機が飛び立った島。この小さな島のどこから飛び立ったのか。航空写真に写る緑の島からは想像できない。多くの人が暮らし、キャンプ地として賑わった過去もあるが、今は住む人もなく、波の音だけが聞こえる静かな無人島だ。
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『国道とは』 国道とは、国が政令で指定した道路である。そうなんです。
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45年前の航空写真には、台地上に耕作放棄地と農作業小屋が写っていた。今では影も形もなく、明るく広々とした雰囲気だけが残っている。尾島での主な現金収入源は葉タバコで、それ以外にも麦、甘藷、スイカ、葡萄を作り、漁業も細々と行っていた。厳しい環境での暮らしは、決して楽ではなかっただろう。