R774@まとめ屋(@kendou774)さんの人気ツイート(いいね順)

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かつて祭礼時に『当渡し』という行事がありました。神社の祭の当家四人と、次の当家四人が集まり、当渡しを行います。その際、ゆでた葉っぱを重箱に入れ、二人ずつお椀に酒をついで飲む。これを3回繰り返します。今では、集落の過疎化で行事は廃れ、行事のことを知るのはお婆さん1人になっています。
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かつては、この航空写真以上に家屋が立ち並び、耕作地が広がっていたそうです。今は、全て廃屋と荒れ地です。
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カーナビ、スマホがなかった時代の酷道・険道走行とは。
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櫃島を目指して北上する。渡船は、羽島、肥島、大島の脇を通っていく。いずれの島も溶岩台地であり、テーブルのような平たい形状をしている。また、今では大島以外は無人島化してしまったが、以前は有人島であったという共通点も持つ。萩漁港から20分ほど走ると、目の前に櫃島が迫ってきた。
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かつては小俣京丸の拠点でもあり、賑わいのあった石切集落。小俣京丸からはとうの昔に人がいなくなり、石切自体も風前の灯となっていた。美しく咲く桜は、人影のない静かな集落を眺めていた。
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風花の舞う頃、大入集落へと向かった。集落の入口まで、開かずの県道(古真立佐久間線)を約6km歩く。花崗岩の渓谷は垂直に切り立ち、道路から河床までの比高は30~50mと恐ろしく深い。一方で、道路は荒れているものの、それほど酷い状態ではない。河川設備保守のために最低限整備されているのだろう。
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県道に戻ってきた。この急斜面の先に集落があったとは全く想像できない。何故、険阻な渓谷の真っ只中に住む必要があったのか。確かに、昔は山の恵を求めて山奥に住むことが珍しくなかった。それでも、これほどの険しい場所に住む必要はないだろう。何かしら大きな理由があったのではないか。
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小俣集落に1時間ほど滞在した後、帰路に就く。対岸の林道から小俣方向を眺めると、小俣が土砂に埋もれた原因が見えた。集落背面の稜線直下で大崩壊が発生し、大量の土砂が集落内に流れ込んでいたのだ。この様子は航空写真でもはっきりと見ることができる。
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それでは、小俣集落についての情報を纏める。小俣が無住化したのは約50年前。その後も元住人の方が通われていたが、それもH.19年に途絶えた。H.19年に背後斜面の大崩落に巻き込まれ、以降集落は土砂に埋もれつつある。今では車道も崩落し、辿り着くのが困難な状態になってしまったのだ。
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実は、『人口2人』というのは上島町の町長ご夫妻であり、この方が町長ご夫人なのだ。ご夫妻は、赤穂根島で有機無農薬の自給自足農業に取り組まれていたのだ。島について伺いたい旨をお話すると、町長ご夫人は赤穂根島に関わる多くの内容を教えてくださった。
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日本の島ガイドの代表ともいえるSHIMADAS(日本離島センター編集)を眺めていた時だった。『人口2人』の島がある。その項には、"有人化"、"無人化"、"人口2人"と書かれている。この3つのキーワードを結ぶものは何なのだろうか。その答えを確かめるために、赤穂根島へと向かった。
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スレッドにします。 『無双連山』地理院地図を眺めていた時、かっこ良すぎる山名が目に留まった。更に、その山の麓には小さな集落があるではないか。人里からは遠く離れ、深い谷間に位置する集落は、まるで隠れ里のようだ。どのような集落か確かめるために川根本町の『小猿郷集落』へ行ってみた。
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一旦集落へ戻り、畑の方へ向かってみた。島の平坦地には葉タバコ畑が広がっていた…はずだが、それは過去のことである。今は、僅かな耕作地が残るのみで、殆どが耕作放棄地という名の荒れ地になっている。どうやら、航空写真(2008年)に見えた耕作地は、大部分が放棄されてしまったようだ。
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スレッドにします。 三遠南信自動車道の青崩峠トンネル(仮称)の見学会に行ってきた。青崩峠トンネル(4998m)は、長野県側は小嵐トンネル、静岡県側は池島トンネルの名前で建設が進められている。今回は、長野県側の見学会に行ってきた。
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これを見た瞬間、確信した。徳久保には主が住んでいる。もう人の住む場所ではないのだ。神社内に残されたモノは、その警告だろうと解釈した。これ以上の長居は無用だ。足早に徳久保を後にした。この後、脇目も振らずに帰路を急いだ。登りは90分かかった急斜面も、50分ほどで下りきることができた。
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午後になる頃から海風が吹き出し、波が出てきた。港には、午前中に無かった自家用船が係留されていた。島民の方は、この船で本土との間を行き来されている。既に櫃島に常住する人はいない。ここにあるのは住民票だけだ。港でしばらく待っていると迎えの渡船がやってきた。
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『近くて遠い神社とは』 この神社のことだ。
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国内には有人離島が416島存在する。農業で暮らす島、漁業に生きる島、観光で賑わう島、過疎に悩む島、そして住人のいない島、それぞれの島の事情は大きく異なる。ただ、"島の可能性"があるという点は、共通しているのではないだろうか。『人口2人』の赤穂根島。そこには、島の可能性を探る姿があった。
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非常に厳しい環境だが、島の人々は力強く暮らしてきた。後年になって、自家発電による時間給電、電話、簡易水道が整備された。学校もあった。それでも、港が無いのが致命的だった。港が無いので、都度、船を引き揚げる必要があるが、島の若い人が少なくなり、それも困難になってしまったのだ。
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東薗目地区からの帰路、花祭会館に寄った。様々な展示物の中に、大入花祭の鬼面があった。この鬼面を含め、大入の花祭祭具は、国の登録有形民俗文化財に指定されている。Oさんは仰る『どうしてこんな山の中に国の重要文化財になるようなものがあるのか。どこから運ばれてきたのか。どこで作ったのか』
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トラバース区間を抜け、地形が穏やかになってきた。薄暗い植林の中に石垣も見えてきた。明らかに集落跡だ。標高は550m。近隣の人里である浦川までは100分、東薗目までは150分かかっていた。生活するにはあまりにも厳しい場所だが、多くの人が住み、学校もあったことは、驚きとしか言いようがない。
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来た道を戻り、更には島の南端へと向かう。荒れたゴカイ養殖場を横目に先を急ぐと…黒い物体が見えた。赤穂根島の住人だ。牛達は、島の保全を目的に飼い始められた。以前はロープで繋いでいたそうだが、今は放し飼いされている。美味しい物を求めて島を彷徨い、自分で小屋に帰ってくる利口な住人だ。
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30年後の人口増減率。全国各地で人口は大幅に減少し、人口希薄地帯からは人がいなくなる。増加するのは都市部でもごく一部の地域だけだ。
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『小俣集落』 確かに、小俣集落は崩壊していた。正確に言えば、背後斜面の崩壊により、多くの家屋が土砂に埋まっていたのだ。今も家屋の残る小俣。その殆どは木々に覆われてしまったが、比較的最近まで手入れされていた土地もあった。しかし、流れ込んだ土砂は、その土地をも埋め尽くしてしまった。
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かつて、大入集落へ向かう道には、浦川からの尾根道と、東薗目からの山越え道があった。浦川道は馬も通れたが、東薗目からの道は『ゆーごーの吊り橋』という恐ろしい吊橋を渡る必要があった。S.29年に、県道の前身となる大入林道が開通したが、その頃には大入に住む人は殆どいなくなっていた。