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『大入集落』 花山天皇の隠れ里とも伝えられ、少なくとも千年以上の歴史を誇った。集落の始まりは判然としないが、花山天皇に関係する主従の二軒だったとも言われる。その後、分家、移住もあり、S.16年には七戸、約60人と記録される。戦後、急激に人口が流出し、S.35年に最後の一軒が転出した。
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標高760mの嶽集落からは、遠くの山並みがよく見える。電気が通じたのはS.39年。高所ゆえ、水は少なかったという。そのような環境下で、6戸は協力して焼畑の暮らしを営んでいた。南向きの立地で農作物がよく育ち、周辺の集落からは羨ましがられた。それでも、嶽の人々は山を下りざるを得なかった。
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この後、近隣地域での聞き取り中、赤い三連星に追いかけられました。何処に行っても、動物に追いかけられている気がします・・・
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大入の離村から60年経った。集落の姿は消え、当時を知るのはOさんだけになった。しかし、大入の地にあった多くの伝説は、花祭の鬼面に宿り続ける。伝説は伝えなければ消えていく。集落の存在が忘れ去られようとしている今、『花祭の鬼面』は時代を超えて、大入の伝説を後世へと伝えていくのだ。
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『入鴨谷』 嶽集落からの帰路、聞き込みのために入鴨谷へ向かった。入鴨谷沿いの集落群はどこも空き家が多く、土砂に埋もれた家もある。いずれの集落にも人影はなく、聞き込みすることはできなかった。それならばと村役場を訪ねたところ、嶽は白水団地へ集団移転したと情報を得ることができた。
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S.38年、未曾有の水害によって前述の横手谷は大崩壊を起こし、多くの人命を飲み込んだ。その後も災害は続いた。S.50年、五木村は防災・利便性向上を目的に白水団地を作り、中道、入鴨、嶽集落を集団移転しようとした。中道、入鴨では集落に留まる人がいた。一方で、嶽は全戸移転したのだった。
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しかし、近代化が進むにつれ、ダンナとムラの人々の関係は希薄になっていく。その流れは昭和中頃に加速し、S.38年から続く水害で決定的になる。水害の復旧工事は、ムラの人々の現金収入源となり、焼畑の暮らしは消えていった。それは、嶽集落も同様であった。今、五木村に焼畑の暮らしは残っていない。
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この立派な家屋は五十嵐家住宅。宝暦9年建築。現在は重要文化財に指定されています。集落はS.47年に閉村しましたが、その後も無積雪期には住人の方が戻ってきていました。それにしても実川集落の祖は、よくぞこの場所に住み着こうと思ったものです。
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『櫃島分校』 萩市立大島小学校櫃島分校(S.40年廃校)。市内の浜崎町に寄宿舎が整備されたことにより廃校となった。集落の家屋に比べて建物の傷みは少ない。近年は倉庫等として利用されていたようだ。島からは人がすっかりいなくなってしまったが、桜は何事もなかったかのように咲いていた。
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櫃島(ひつしま)は、萩市街地から約10km、一番近い有人島の大島から約1.5kmの位置にあり、萩市沖にある6つの島、いわゆる萩六島のうちの一つである。東京ドーム17個分の面積を有しており、島の周囲には断崖が続き、内陸には平坦地が広がっている。その形状は何とも不思議な形をしている。
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深いV字谷の続く祖谷渓。その途中に、ケーブルカーで行く露天風呂が有名な祖谷温泉がある。谷間に立つ一軒家の周囲には、深い山々が広がるばかりだ。しかし、それは表向きの話である。とても想像できないが、かつてこの深い山々の中には集落があった。そして、今も人の営みの跡が残っているのだ。
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この集落までの道は崩れていました。ご注意を。
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崩落現場から1時間。峠に差し掛かる。峠では椎茸栽培が行われているようだが、人が訪れた形跡はない。車道が通れないからだろう。嶽集落までの車道は、作業道として近年開設されたもので、車道ができる以前は主に入鴨谷から山道を上っていた。峠を越え、徐々に生活の香りがしてくると建物が現れた。
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僅かな緩斜面には、お城のように石垣が積み上がる。大入集落では、稗、麦、蒟蒻が作られ、3aほどの水田もあった。炭焼も行なわれ、蒟蒻と炭の販売などで生計を立てていた。T.8年~S.27年にかけて分教場(東薗目小学校大入分教場)も開設され、1学級、教師1名、生徒10名の時もあったという。
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かつて萩六島(大島、羽島、肥島、櫃島、尾島、相島)は、いずれの島にも住人がいた。しかし、羽島、肥島、尾島の3島からは住人が消え、島は人が住む以前の姿に戻りつつある。そして今、櫃島も同じ道を辿ろうとしている。『一枚の航空写真』に隠されたもの。それは徐々に消えゆく島の姿だった。
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海に面した水汲み場。道が崩れて近づけなかった。島民の方々が最も苦労したのは水の確保である。高島は急峻な地形故に、河川が一切無い。長い間、天水と湧き水が水源だった。戦後に入ると徐々に改善され、S.26年に貯水タンク、その後に簡易水道が整備された。それでも豊富に使える量ではなかった。
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『山村風景は僅かな時間で消えていった』 美しい山村風景は、そこに住む人々によって創られる。それは、そこに住む人々がいなくなった時、山村風景が消えていくことを意味するのだ。
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観光地も名勝も何も無い。それ故、この地区を訪れる人は少ない。深く険しい渓谷の奥には、穏やかな地形が広がっていた。そんな不思議な地区の住人数は8世帯10人。ここ20年で半減した。その住人も殆どが70歳以上だ。地区の未来は決して明るくないが、それでも山に残り、生活を営む方々がおられた。
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『八幡宮』 樹齢数百年のリュウキュウエノキに囲まれて社殿が立つ。御神体は既に無く、もぬけの殻であった。島民の方によると『(御神体は)既に移動した』ということだった。それにしても倒木が直撃したのだろうか、悲しいくらいの荒れ方だ。見捨てられた神社は見守る人もなく、このまま朽ちていく…
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土砂は校舎を破壊し、教室の中まで流れ込んでいた。それでも、学校の証を示すかのように机、そして黒板が残っていた。住人のいなくなった小俣集落の末路。それはあまりにも虚しいものであった。
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『鹿も猿も来なくなった』のだと。時代とともに集落から人が減り、それとともに耕作地も減っていった。ついには、集落にご夫婦だけとなり、作物は作られなくなった。すると、動物達は集落に来なくなったというのだ。
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『小俣分校』 上空を遮る木々の下には校舎が眠っていた。斜面の上方に建物が見える。近づいてみると、石碑には『石切小学校小俣分校』とある。S.41年の廃校から50年以上経ち、校庭と思われる平地には木々が聳えていた。石碑がなければこれが学校だったと気づくことは難しい。
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港から島を見上げる。断崖に一本の道路が延びる。これが内陸への唯一の道だ。櫃島に人が住み始めたのは、平安時代とも、室町時代とも言われるが、明確な時期は分からない。ただ、少なくとも500年以上の歴史がある。それにしても、この島の祖先はどのようにしてこの断崖を登っていたのだろうか。
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『炭焼き又次郎』 炭焼が盛んだった地域に、京塚さまと呼ばれる神社があった。山の中にも関わらず、祭りにもなると出店が立ち並び、多くの人が訪れた。当時、周囲には田畑が広がる美しい里山風景があった。時は過ぎ、訪れる人はいなくなり、里山風景も消えてしまったが、民話は今も語り継がれている。
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『船引き場』 迎えの船で、船長が『船の引き上げ場だった』と教えてくださる。島でも唯一断崖の切れる辺りに、小さな防波堤で守られた船引き場があった。有人時代、高島には船を寄せる箇所が3箇所あった。船着き場、ワニノウチ、そしてこの船引き場で、船を引き上げることができるのはここだけだった。