山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(新しい順)

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徳川慶喜の別名は興山公 慶喜は絵画にもいそしみ、油絵が何点か残されています。 オランダの風車 海外に行ったことがなく、しかしながら外国への憧れは強かったのではないでしょうか? 。。。めちゃうま!!( ゚д゚)
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講演会の内容を少しだけ。 徳川慶喜は孫娘の喜久子(後の高松宮妃殿下)を可愛がっており、その姿は元将軍、最後の将軍というのではなく、一人の孫を愛でるおじいちゃんの姿でありました。 こういった歴史の中には、人間の関わりという物語があるというお話をさせていただきました。
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祖母から受け継いだ松平の色留袖 母から受け継いだ徳川の振袖 この他、菊の紋が入った高松宮妃殿下の着物があり、大切にしています。 着る物も昔と今とで概念が変わって来たかも知れません。 日曜日の橿原での講演会には色留袖を着つけていただく事になりました。
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4世代 慶喜〜慶久〜慶光〜慶朝〜美喜 歳の差131歳 生きていたら184歳
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復讐からは復讐しか生まれない。 桜田門外ノ変〜天狗党征伐 徳川慶喜は断ち切りたかった。 争う事は不幸しか生まれない。 私の言葉で言うと 「ざまあみろ」からは何も生まれないのです。 悔しさ秘めた涙を共する我慢の向こうに 新しい世界がある。 #青天を衝け #徳川慶喜
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「青天を衝け」では草なぎさんの演じる慶喜公、とても似ていると思います。 慶喜公はとにかく争い事を避けるべく、悔しいと心の底では思いながらも遠慮深く、自分の立場より平和を望んでいた人。 周りの方はあまりに忍びなく、それを良しとしなかった所があったかも知れません。
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徳川慶喜公は静岡から東京に引っ越し、公爵となってからは、各方面から会食の招待があり、その時のメニューも残っています。 その招待券、メニューの向こうに華族の時代や文化、生活というのが見えてきますね。とても風情があります。
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徳川家のハンコ 印は色々と種類があり、残っているのですが、これは象牙で天使の彫刻が施され、葵紋に装飾が施されているので、フランスで作られたものではないかと思っています。
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徳川慶喜は様々な趣味があり、囲碁も嗜んでおりました。 華族の中で番付表まであるほどの囲碁愛好家の面々。 そうそうたるメンバーが名を連ねています。 慶喜は大政奉還後、遊び呆けていたと勘違いされますが、囲碁を通じて何かが動いたかも知れません。
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徳川慶喜家の史料は山ほどありますが、研究が進んでおりません。それまで家の史料だったので、それを公開するには様々な配慮が必要ですし、家族の写真を公開するのも、心の中で大きな一歩が必要とされます。徳川慶喜家一家。父、慶久亡きあと。左より喜久子、久美子、実枝子、喜佐子、慶光
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徳川慶喜は大正2年11月22日に風邪をこじらせ、77年に及ぶ波乱の人生の幕を閉じました。 徳川慶喜が日本にもたらした功績を讃え、旭日桐花大綬章が授けられtました。 そして公爵徳川慶喜家は7男の慶久に受け継がれました。
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幻の徳川勲章 諸外国では国が勲章を授ける事をしていたので、薩摩が勲章を作る事により、薩摩藩が海外では国として認められようとしつつありました。 それに対抗し、幕府も徳川勲章というのを作ったのですが、大政奉還を迎えたので、受賞者のないまま、幻となってしまいました。 写真はレプリカ
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祖母が、頭の中にしまっておく訳にもいかないと言って、書き溜めた原稿がありました。 華族の暮らしや、昔の風習が現代に蘇るような内容、 私が時代的背景などを追記しました。 何となく徳川家、松平家の空気を共感していただけると嬉しいです。大河ドラマを見る目が少し変わるかも。 #青天を衝け
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徳川慶喜とひ孫の慶朝 本当に似ていると思うのです。 静かな佇まいや、我慢強い所、優しい所 そして人と争う事を殊更嫌いました。 どんなにマウントされても。 争うという事は、同じレベルに成り下がります。 それを品格と言うのかも知れません。 周りは口惜しい思いを沢山された事でしょう。
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祖父母の時代、結婚式の翌々日の お里開き 結婚式を挙げた後、正式にお嫁さんの実家にご挨拶に行く風習。 きちんと大切にしていますという報告かと。 それだけ結婚は家同士の繋がりだったと思います。 祖母は懐刀(家を辱める事があれば自害〜という風習のお守り)を携えて、徳川家に嫁しました。
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資料の中に鼈甲のピンがありました。 何に使うのだろうと思っていたら、友人である京都の元舞子さんがこれを見て、「あぁ!コレはね、203高地髷に使うものよ!」と。 当時、その髪型をしていたのは実枝子さま。 こういった物が時代を超えて、歴史と文化が引き継がれるものなんだと思いました。
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叔父の徳川慶朝は大変な凝り性で、家にあった文献から、徳川慶喜は珈琲を飲んでいたことを知り、その時代に手に入ったと思われる豆でコーヒーを自ら焙煎し、茨城のサザコーヒーさんが商品にして下さいました。 祖父母の家に行った時と同じ香りが懐かしく思います。 #徳川将軍珈琲
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徳川家から高松宮家へ 公爵徳川慶久次女(長女は夭折)の喜久子さまは、生まれながらにして運命を背負われ、昭和天皇の弟、高松宮宣仁親王殿下にお輿入れされました。本当に美しく、心の素晴らしい方でした。 しかし妃殿下の本当に素晴らしいところは、その後のご活躍でした!
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大隈重信より徳川慶喜へのお手紙。 走り書きのようなお手紙ですが、丁寧な宛名書きで、敬意を持って接してくださっていたというのが伝わってきます。 大隈重信氏は二度も総理になられていたとは知らなかったです。 早稲田大学の創立者というイメージ強しです(⌒-⌒; )
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徳川慶喜家の資料は色々な物がありますが、家族の歴史そのものです。 祖父の徳川慶光が生まれた時、昭憲皇太后(明治皇后)陛下に名付けられたのは、驚きでした。 そして時代と共に翻弄された人生を送り、1993年80歳の誕生日に亡くなりました。
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明治44年日本橋開通式の招待状と式次第 東京市長 尾崎行雄氏よりご案内がありました。 江戸時代が終わり、現代社会が作られてゆく一つの出来事ではないかと思います。こういった資料を目にする事により、歴史が生きてくるような気がいたします。 日本橋は幼き頃から憧れの場所でした!!
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上段左より 松平康愛(やすよし) 〜松平慶永の玄孫 徳川和子 〜松平容保の孫 松平久美子 〜徳川慶喜の孫 松平綾子 〜松平康愛の母(徳川慶喜の孫) 徳川慶光 〜徳川慶喜の孫 下段 高松宮両殿下 松平康昌 〜松平慶永のひ孫
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曽祖母の徳川實枝子(旧名:有栖川宮實枝子女王) たまにあだ名で私のコトを姫と呼んでくださるのですが、本当のお姫様は實枝子さまだと思っています。 小さい頃から有栖川宮威仁親王両殿下に慈しみ育てられ、徳川慶喜家にお輿入れさた美しく品格のお有りになるお姫様 ニセモノと似ても似つかず。。。💧
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私の持っている史料に 大政奉還後、ならず者の薩長との一戦は免れない。早いとこ制圧して。。。と思っていたら薩長に錦旗が上がったのを見て、朝敵になる事は出来ないとして、撤退した。 と書いてあります。 命が惜しくて逃げ出したのではないようです。 #鳥羽伏見の戦い #徳川慶喜
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母の実家が徳川家という事を人に言うものではない。 と両親や周りに言われていました。 妬みも買うし、嫌われる事もある。 叔父を看取ってからどんなに嫌われてでも、心より尊敬する母や祖母、ご先祖様に供養を込めています。 その向こうにある歴史がある事。 私はみんな死んじゃって悲しいのです。