山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(新しい順)

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徳川慶喜と正妻美賀子は、仲が悪く、別居していたみたいなコトを聞かされ、モヤモヤしていましたが 明治5年から美賀子の危篤直前までの22年間、静岡で一緒に暮らしていました。 また慶喜も大切な人として対応していた記録がありました。 こうゆうのを見つけると嬉しいです。 #家扶日記
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徳川家の家紋が三つ葉葵というのは、よく知られていると思いますが それぞれの家で微妙に違います。 テレビの影響で、みんな一緒と思われがち。 徳川慶喜家のお墓の門には 慶喜家の家紋 祖母からいただいた着物には 祖母の実家である会津松平家の紋(松平家も三つ葉葵)
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徳川慶喜家の資料には貴重な物が多く、その一つに 烈公御真翰(れっこうごしんかん)があります。 烈公(徳川斉昭〜水戸徳川家当主〜徳川慶喜の父)より 一橋徳川家当主となった息子慶喜への手紙集 その時、父は何を思ったか。 慶喜は父の気持ちを大切に思い、装丁し、桐箱に入れました。
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素晴らしい演技だったと思います。 心に伝わる気持ちがありました。 草なぎ剛、ギャラクシー賞個人賞 「青天を衝け」演技を評価「後世に残る徳川慶喜像作り上げた」 - 芸能 : 日刊スポーツ nikkansports.com/entertainment/…
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明治天皇と徳川慶喜の会食 こうした招待状やメニューが数多く残されており、また公爵授爵以前は 麝香間祗候(じゃこうのましこう)という、いわゆる明治天皇の御意見番という立場でもありました。 いつかこのようなメニュー再現した会食をやってみたいですね♪ 色んなご意見が伺えたら嬉しいですし♪
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静岡県にある可睡斎のお雛様 1200体の展示が 凄すぎる!!! 徳川家康を幼少の時から御守りした和尚さまが、将軍になった家康の前で居眠りをしたけれど、将軍の前で唯一居眠りを許された事から、命名された寺院。 素晴らしいです!!
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正義と信じ、戦争を回避する人がいた。 逃げ出した訳ではなく 汚名を被り、目立たず人の命を救った事に、後悔は無いと思います。 勝つ事ばかり知りて 負くる事を知らざれば 害その身にいたる #徳川慶喜 #鳥羽伏見の戦い #ウクライナ情勢
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徳川慶喜家 家系図
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明治41年6月9日 明治天皇との会食への招待状。 赤字は徳川慶喜直筆 徳の字は一本線が入るのが、正しい形。 御陪食とは天皇陛下との食事の意味 メニューも残しており、大切にしていたことの顕。
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歴史は本や資料からの知識ではなく。 家に語り継がれた昔話から。 徳川だけでなく、どの家にも。それが本当の歴史 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し 堪忍は無事長久の礎 及ばざるは過ぎたるより勝れり 東照宮送別 慶喜書
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徳川家親族で食事をしました。 松戸徳川家ご当主(徳川昭武〜民部公子さまのひ孫) 徳川文武さま 徳川慶喜のひ孫 井手純叔父様 時代を超えても交流が持てる事に感謝です。 お互いの立場の理解があります。 素晴らしい方々と午後のひととき。
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徳川慶喜の息子、徳川慶久と孫文との交流の証 この時代、お互いの写真を贈り合う事も交流の一つとされていました。 きっと孫文の方には徳川慶久の写真があるかと思います。 江戸時代その後の話です。 日本の平和を何よりも願っていました。
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日本経済新聞 2021年3月4日夕刊 社会面
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曾々祖父の徳川慶喜の墓地は東京上野の寛永寺敷地内にありますが、現在、私の管理下にあります。 毎年、春と秋にお墓参りをしています。 遺族が現在も生きていますので、大河ドラマに関わる方にお参りしていただきたかったです。 (映像を流すだけでなく) 連絡一切無し。。。
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司馬遼太郎の徳川慶喜は 小説 渋沢栄一の徳川慶喜公伝は伝記 小説やテレビドラマが、本来の歴史認識より先走る傾向にありますが、今回の大河ドラマは、伝記寄りという印象です。 #青天を衝け
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徳川慶喜邸 〜徳川慶喜撮影による〜 小日向第六天町(現在の文京区) 徳川慶喜没 約30年後、ここで母が産まれました。
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渋沢栄一による徳川慶喜公伝の稿本 中に添削も。 そしてこの伝記を編纂する渋沢栄一へのインタビュー本として、昔夢会日記があります。 (大久保利兼〜大久保利通の孫による) どれだけの思いが詰まっている事でしょう。
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そして、徳川慶喜の孫と 松平容保孫が結婚したことは どれだけの人の心乗せてきたかと思います。
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江戸城明け渡しをしたのち 徳川慶喜は 幕府に全てを捧げた会津とは、時間をかけて話し合いをすべき と朝廷側に伝えています。 朝廷側がそれを無視し、会津戦争が始まった。 慶喜の無念と悲しみ。 会津は最後まで誠の武士であった。と語っています。
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徳川家の親族は、徳川家の空気感を共有しています。 その中で、お互いの立場を理解と配慮がありました。 見えない歴史でもあり、学芸員がそれを知らず一線を超えると、あぁ、解ってないな。。。と徳川家の信用がなくなります。それが何より怖い。知識の問題ではない所が歴史の中にあります。
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徳川慶喜が36歳の時の子、長女の鏡子(きょうこ)さまから、父慶喜へ宛てた手紙 (美しい封筒が思いやりを語る) 鏡子さまは実子として成長された最初の子。 田安徳川家四男 徳川達孝(サトタカ)さまに嫁がれるも20歳で亡くなります。 この時代、まだ生きるという事さえ困難な時代。
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徳川慶喜家ファミリーヒストリーをショートムービーにしてみました。 懐かしい気持ちと寂しい気持ちが入り混じります。
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徳川慶喜公は、明治時代、様々な所に旅をされ、趣味でもあったので、沢山写真を撮られました。 福島県にある有栖川宮別邸 天鏡閣へもお出かけになりました。 叔父が生前、徳川慶喜撮影写真集を出版した事は、家に伝わる慶喜家資料公開の一石でありました。
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幕末というのは、歴史の宝庫ですね。 徳川慶喜 公爵授爵の写真と 麝香間祗候時の正装 和装から洋装の時代
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渋沢栄一翁(号は青淵)が生涯尊敬した徳川慶喜を伝えようと、伝記を出版してくださり、本当に感謝しています。 また、今回の大河ドラマで、渋沢栄一とその偉業が知られるようになった事も良かった事と思います。 歴史を知ると意義と価値が生まれます。 #青天を衝け #渋沢栄一 #徳川慶喜