山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(新しい順)

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祖父(慶光)の祖父 徳川慶喜 祖母(和子)の祖父 松平容保 ご先祖さまがドラマに出ているのを見るのはなんだかワクワクします。 時代を超えた親族大集合的な。。。 ご先祖さまが皆イケメン俳優(しかも演技派!)の方々で嬉しいです(*^^*) #青天を衝け #大河ドラマ
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祖母の実家、会津松平家は子爵家で、東京の小石川区第六天町に家族で住んでいました。母は水野家から来た進子(ゆきこ) 公爵徳川慶喜家当主慶光との縁談が持ち込まれ、お見合いし結婚。 当時の会津松平家は洋館で立派な家の佇まい。 祖母は「同じ町内で結婚したのよ」と話してくれました。
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徳川慶喜家の車ダイムラー 常に新し物好きの元将軍「徳川慶喜」 これに乗ってお出かけしていました。 お抱えの安藤運転手と共に。 運転手は当時は大変に少なかった特殊職業。 しかし、慶喜さまは自転車乗るわ、カメラだ、自動車だ。。。 完全にザ・男の子!ですね。
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去年でしたが、自毛で島田に結っていただき、徳川の着物を着用しました。 島田を結うには長い髪が必要で、この時のために伸ばしてきて、この後、42センチのヘアードネーションをしました。 時代劇みたいで楽しい一日でした。 苦しゅうない!なんて言っちゃったりして、ホントは苦しかったです^^;
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高松宮妃殿下が、仲が良かった義妹の徳川和子に譲ったお着物。 28年前、私の結婚の折に祖母から譲り受けました。 皇室の菊の柄と、妃殿下のお印の撫子をあしらった柄。 もう消えかかっていますが、高松宮家の御紋つき。 日本の誇るべき歴史と文化と芸術だと思います。
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癌との闘い 徳川実枝子さまは癌をわずらわれ、気づいた時には末期でした。 高松宮妃喜久子妃殿下は 娘といえど、雲の上に上られた方。娘が自分の看病することをよしとせず、昭和8年に亡くなりました。妃殿下はそのお悲しみを胸に高松宮妃癌研究基金を立ち上げられました。 #高松宮妃癌研究基金
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徳川家に限らずなのですが、子供が産まれたら、名前とは別にお印というのがあります。 皇族で知られているとは思いますが。。。 祖母のお印は「まり」でした。 「まり印」のまり柄の風呂敷。 今も大切に使っています。
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徳川家の着物 祖母や母から受け継いだ着物や帯があります。 徳川紋はいかにも徳川!!という感じなので、そこまで仰々しくなく葵をモチーフにしています。 実は徳川家の人たちは、こういったさりげない使い方が好きなのです。 さりげなく、プライドを身にまとう。。。という感じでしょうか。
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昔夢会筆記 渋沢栄一さんによる徳川慶喜本人へのインタビュー本。 渋沢栄一が徳川慶喜公伝を編纂するにあたっての準備本(?) 司馬遼太郎の徳川慶喜は小説ですし、大河ドラマはテレビドラマで脚色ありきです。 きちんと知ること大事! と、とある出版社の方からいただきました。 #徳川慶喜
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鳥羽伏見の戦いで、「敵前逃亡した臆病者」が 「汚名を背負う勇気を持っての戦争回避」であった と語られるようになるのは、いつになるのでしょう。。。
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明治35年に徳川慶喜は公爵になったのですが、その後、何か怪我をしたようで、皇太子両殿下よりお見舞いに、ワイン1ダースと卵150個下賜されたそうです。 栄養つけて元気になってくださいというお気持ちが伝わります。 卵いっぱい(*^◯^*)
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将軍 徳川慶喜から 時を経て 公爵 徳川慶喜へ この人ほど、時代に翻弄された人はいないのではないでしょうか。 生まれと育ち、そして本人の努力が、自分の意思とは違う方向に翻弄され続けた人生だったのかも。 本当の命の大切さを知っているのは、徳川慶喜と昭和天皇陛下かも知れません。
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徳川家のアルバム カメラ好きだった徳川慶喜のアルバムには時代を顕す写真が数多く残されています。 家族の思い出としてめくるか、他人が史料としてめくるか。 家族の歴史を日本の歴史にする事は、意義のある事と理解しますが、同時に家族にとっては哀しさも含まれます。
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徳川慶喜は写真が好きだったのは有名な話。 お出かけしては写真を撮っていました。 晩年も王子にある渋沢栄一邸にお呼ばれして行ってきて、写真を嬉しそうにパチパチ撮っていたのでしょう。 時代を超えた姿です。 今日も大河ドラマ楽しみです。 #青天を衝け #渋沢栄一 #徳川慶喜 #渋沢邸
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徳川慶喜は明治後半になって皇居に招かれ、天皇皇后両陛下と食事を共にしました。 昭憲皇太后(明治皇后)が慶喜にお酒を注ぎながら 「これで私も心の荷が降りました」と。 両陛下は徳川慶喜の事をずっと気にかけてくださっていました。
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渋沢栄一さんから徳川慶喜への手紙 渋沢さんは大変勉強をされたというのが伝わる、美しい文字です。
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徳川慶喜は元々自分が一番になろうと思っていない。 皇室に全てを渡し、命をも差し出す覚悟だったし、自分が江戸に残ると、良からぬ策略が企てられるから、静岡に引退。 遠慮深く、謙虚で決して自分が天下を握ろうなんて思ってないのに、テレビ的にはそれでは面白くないのでしょうか?
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徳川慶久さまと実枝子様がご結婚の際の明治天皇陛下からの勅許 有栖川宮実枝子女王は皇族だったので、ご結婚の際には天皇陛下からの勅許をもって、結婚が整います。 この二人の結婚は時代を語る大切な縁談であり、万感の思いをもって多くの人に祝福されました。
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宮内大臣から徳川慶喜への手紙 明治34年に天皇家に親王が生まれ、東宮御所にて命名式に参列するよう、宮内大臣からのお達しがありました。生まれたのは皇太子(のちの大正天皇)の息子、 のちの昭和天皇です。 江戸時代から昭和につながるお手紙ですね。
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男爵 澁澤栄一著 徳川慶喜公伝 龍門社発行 渋沢栄一さんは徳川慶喜を心の底から尊敬してくださり、徳川慶喜のような立派な人は後世に語られるべきと考え、こうして伝記として編纂してくださいました。 #青天を衝け #徳川慶喜 #渋沢栄一
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徳川慶喜家には家範(かはん)といって、徳川慶喜家が定めた家のルールみたいなものが残されています。 慶喜本人が丁寧にしたためました。 子孫繁栄を願っての事ですが、明治35年(1902)から約120年間の時代の移り変わりはとても激しいと思います。 家族の歴史を日本の歴史に。。。
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右 徳川慶喜の七男 慶久 左 三島弥彦(日本初オリンピック短距離選手) 一昨年の大河ドラマ「いだてん」で生田斗真さんが演じておられましたね。 ホンモノはこちら。 当時、一緒に写真を撮るという事は友情の証 仲がよかったみたい。 #大河ドラマ #いだてん #生田斗真
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晩年の徳川慶喜の写真 瞳の奥には時代を超えて生きた憂いというのを感じます。何という人生だったのでしょうか。。。 その中で、孫娘の喜久子(後の高松宮妃喜久子殿下)を可愛がる姿に平穏が伝わります。
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徳川家康遺訓 勝つことばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。 桜田門外の変はまさにその象徴かと。 勝つ事は危険を背負う。 常に負を敢えて選ぶ徳川慶喜。それを喜んでいる人たちはいかに愚かであるか。 そんな教えを身に感じる時があります。目的は勝つ事ではない。 #青天を衝け
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徳川斉昭(父)より一橋慶喜(息子)へ 教育パパゴンのお手紙集 烈公御宸翰(れっこうごしんかん) 徳川斉昭は慶喜に特別愛情を注いでいました。 沢山の教育手紙の中には ふんどしの巻き方なども丁寧に教えていました。 斉昭様の文字からは自由な感じをお見受けします。 #大河ドラマ #青天を衝け #徳川慶喜