山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(いいね順)

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徳川慶喜と正妻美賀子は、仲が悪く、別居していたみたいなコトを聞かされ、モヤモヤしていましたが 明治5年から美賀子の危篤直前までの22年間、静岡で一緒に暮らしていました。 また慶喜も大切な人として対応していた記録がありました。 こうゆうのを見つけると嬉しいです。 #家扶日記
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徳川慶喜公は、明治時代、様々な所に旅をされ、趣味でもあったので、沢山写真を撮られました。 福島県にある有栖川宮別邸 天鏡閣へもお出かけになりました。 叔父が生前、徳川慶喜撮影写真集を出版した事は、家に伝わる慶喜家資料公開の一石でありました。
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徳川慶喜が大政奉還をし、坂本龍馬に書状が遣わされた。 龍馬は 「将軍さまのご心中深くお察し申し上げる。よくも断行せられたものだ。自分は誓ってこの方のために一命すてよう」 とため息をついた。 その1ヶ月のち1867年12月10日、坂本龍馬は暗殺された。
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歴史は本や資料からの知識ではなく。 家に語り継がれた昔話から。 徳川だけでなく、どの家にも。それが本当の歴史 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し 堪忍は無事長久の礎 及ばざるは過ぎたるより勝れり 東照宮送別 慶喜書
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曽祖母 有栖川宮実枝子女王と 曽祖父 徳川慶久(徳川慶喜7男)との結婚は 明治天皇陛下の勅許をもって 相成りました。 皇族は華族とのみ結婚が許されていた時代でした。 華族制度は終戦により失われ、新たな時代を迎えました。
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徳川慶喜の息子、徳川慶久と孫文との交流の証 この時代、お互いの写真を贈り合う事も交流の一つとされていました。 きっと孫文の方には徳川慶久の写真があるかと思います。 江戸時代その後の話です。 日本の平和を何よりも願っていました。
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光輪閣 高松宮御殿としての屋敷ですが、両殿下は国民が大変な時に自分たちだけこんな立派な建物に住めないとし、結婚式場などの会場として公開。両殿下はこの裏にある職員住宅に20年以上住んでおられました。2枚目はお正月に挨拶に行った写真(私、0歳〜昭和44年)
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3月4日付日本経済新聞夕刊 社会面に載りました。 徳川慶喜家は現代も大変なのです。 心ひそかに。。。 草なぎさんや関係者が墓前に手を合わせていただけると有り難く思うのです。 #徳川慶喜 #大河ドラマ #草なぎ剛さん #日本経済新聞
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昨日のうちに見られなかったので、NHKプラス(iPad)で観ています。 祖父の慶光(慶喜の孫)も叔父の慶朝も本当に心優しい人でした。 慶喜の優しい姿にさもありなん。 慶喜の母は有栖川宮皇女吉子様。水戸家に嫁がれました。 #大河ドラマ #青天を衝け #徳川慶喜 #草なぎ剛さん
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徳川のニセモノ、ネットでも時々見かけます。 この人誰だろう??きっと本名違う人。 葵交会、徳川家の家系図が語れない人は怪しいデス。
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大政奉還図 邨田丹陵(むらたたんりょう) 2枚目は左より 邨田画伯、徳川慶光、榊原喜佐子、井手久美子 徳川家と邨田画伯はかねてより交流がありました。 祖父の所有だったこの絵は明治神宮に奉納。 大政奉還により現代社会につながっていきました。 井手純おじ様のTwitterよりお写真拝借
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大河ドラマの音楽、演奏はNHK交響楽団で指揮は尾高忠明さん。 尾高さんは渋沢栄一さんの祖孫さん。 N響(新交響楽団)の始まりは大正15年。渋沢栄一が活躍した時代。 過去から現在に繋がり、そして未来に!! 物語は続いています。 #大河ドラマ #青天を衝け #音楽 #N響
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昔夢会筆記 渋沢栄一さんによる徳川慶喜本人へのインタビュー本。 渋沢栄一が徳川慶喜公伝を編纂するにあたっての準備本(?) 司馬遼太郎の徳川慶喜は小説ですし、大河ドラマはテレビドラマで脚色ありきです。 きちんと知ること大事! と、とある出版社の方からいただきました。 #徳川慶喜