山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(いいね順)

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徳川慶喜家を閉じる為に 当主になる。 正確には 第四代の遺言により ならざるを得ない。 現代の大政奉還です。 関係者による反発があるかも知れない。 しかしながら 信念を持って務めます。
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祖母・徳川和子との共著『みみずのたわごと』(東京キララ社)を2020年12月に刊行しました。徳川慶喜家のファミリーヒストリー →amazon.co.jp/dp/4903883531 慶喜家の親族として「青天を衝け」の感想もつぶやいていきます。よろしくお願いします。 #徳川慶喜 #大河ドラマ #草彅剛 #渋沢栄一
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鳳凰の帯留め 目はルビー、中央にエメラルド ダイヤと真珠であしらわれた品 妃殿下から頂戴いたものと思われます。 主婦の友社の取材で身につけ、母が亡くなった時、私が受け継ぎました。魂が宿っている逸品。 もうすぐ母の命日。
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徳川家親族で食事をしました。 松戸徳川家ご当主(徳川昭武〜民部公子さまのひ孫) 徳川文武さま 徳川慶喜のひ孫 井手純叔父様 時代を超えても交流が持てる事に感謝です。 お互いの立場の理解があります。 素晴らしい方々と午後のひととき。
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母の実家が徳川家という事を人に言うものではない。 と両親や周りに言われていました。 妬みも買うし、嫌われる事もある。 叔父を看取ってからどんなに嫌われてでも、心より尊敬する母や祖母、ご先祖様に供養を込めています。 その向こうにある歴史がある事。 私はみんな死んじゃって悲しいのです。
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徳川家の遺訓「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし」ドラマでは最後の方が省略されていましたが、〆の言葉は「及ばざるは過ぎたるより勝れり」なのです。#大河ドラマ #青天を衝け #徳川慶喜
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徳川慶喜家の車ダイムラー 常に新し物好きの元将軍「徳川慶喜」 これに乗ってお出かけしていました。 お抱えの安藤運転手と共に。 運転手は当時は大変に少なかった特殊職業。 しかし、慶喜さまは自転車乗るわ、カメラだ、自動車だ。。。 完全にザ・男の子!ですね。
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明治41年6月9日 明治天皇との会食への招待状。 赤字は徳川慶喜直筆 徳の字は一本線が入るのが、正しい形。 御陪食とは天皇陛下との食事の意味 メニューも残しており、大切にしていたことの顕。
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去年でしたが、自毛で島田に結っていただき、徳川の着物を着用しました。 島田を結うには長い髪が必要で、この時のために伸ばしてきて、この後、42センチのヘアードネーションをしました。 時代劇みたいで楽しい一日でした。 苦しゅうない!なんて言っちゃったりして、ホントは苦しかったです^^;
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沢山のお申込みをいただきまして、ビックリでございます。 何と!世界的ピアニストの横山幸雄さんのトコロにお嫁入りが決まりました!! 以前、我が家にお越し下さり弾いていただいたコトもあり 状態をよくご存知というコトが、大きな決め手でございました。 ご協力ありがとうございました
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宮内大臣から徳川慶喜への手紙 明治34年に天皇家に親王が生まれ、東宮御所にて命名式に参列するよう、宮内大臣からのお達しがありました。生まれたのは皇太子(のちの大正天皇)の息子、 のちの昭和天皇です。 江戸時代から昭和につながるお手紙ですね。
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東照宮(徳川家康)送別 徳川家康の言葉、人の一生は。。。 は、徳川慶喜も大変感銘を受け、自筆で清書し、後世に遺しました。 私も小さい頃から聞かされていました。 コメント欄に全文掲載
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徳川慶朝と徳川慶喜 1998年に徳川慶喜が大河ドラマになった時、スタジオにお邪魔して時の一枚 衣装はナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜(2枚目)を忠実に再現。 叔父はひいお爺様に会えて、とても嬉しかったそうです。 #大河ドラマ #徳川慶喜
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徳川慶喜の息子と 勝海舟の孫娘が 結婚しておられるコトは、意外と知られていない事実。 勝家に婿養子に入った精(くわし)様 結婚は今とは違った深い意味がありました。 時代の流れ。 このツイッターで 一族の方と出会えたコトは嬉しい出来事でした。 いつかお会いしてみたいです。
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母から受け継いだ ダイヤと真珠とエメラルドをあしらった帯留め 高松宮妃喜久子殿下からダイヤとルビーのカルティエのブローチ お互いを思う心と共に、永く沢山の方に共感していただければと願っています。 宝石には心が宿ります。
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約30年前になりますが 母から受け継いだ着物を着て、結納を交わしました。 嫁入り道具の中に 興山公遺墨(こうざんこう いぼく)がありました。 徳川慶喜が書いた、家に伝わる書 〜人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し〜 東照宮(家康)送別
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徳川慶喜は明治後半になって皇居に招かれ、天皇皇后両陛下と食事を共にしました。 昭憲皇太后(明治皇后)が慶喜にお酒を注ぎながら 「これで私も心の荷が降りました」と。 両陛下は徳川慶喜の事をずっと気にかけてくださっていました。
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ナポレオン3世より贈られた 軍服を身に纏った 徳川慶喜 激動の時代でした。 #青天を衝け #徳川慶喜
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徳川慶喜の母、吉子さまは有栖川宮家出身。 徳川家と有栖川宮家は殊の外、強い繋がりでした。 徳川慶喜七男、慶久と有栖川宮家の最後のお姫様 実枝子さまとの結婚は運命でした。 3人直筆署名の入った写真。実枝子さまの有栖川御流の美しい文字に注目 #青天を衝け #徳川慶喜 #有栖川宮 #大河ドラマ
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徳川慶喜家には家範(かはん)といって、徳川慶喜家が定めた家のルールみたいなものが残されています。 慶喜本人が丁寧にしたためました。 子孫繁栄を願っての事ですが、明治35年(1902)から約120年間の時代の移り変わりはとても激しいと思います。 家族の歴史を日本の歴史に。。。
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徳川家のアルバム カメラ好きだった徳川慶喜のアルバムには時代を顕す写真が数多く残されています。 家族の思い出としてめくるか、他人が史料としてめくるか。 家族の歴史を日本の歴史にする事は、意義のある事と理解しますが、同時に家族にとっては哀しさも含まれます。
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将軍 徳川慶喜から 時を経て 公爵 徳川慶喜へ この人ほど、時代に翻弄された人はいないのではないでしょうか。 生まれと育ち、そして本人の努力が、自分の意思とは違う方向に翻弄され続けた人生だったのかも。 本当の命の大切さを知っているのは、徳川慶喜と昭和天皇陛下かも知れません。
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徳川慶喜家のお墓 大和時代からある 上円下方墳 神道に改宗した慶喜公は、お墓の形も皇族に倣いました。 歴代将軍で、神道は家康公と慶喜公のみ 小さい頃から、お墓参りしていたので 不自然に思わず。 (ウチだけやけに大きいとは思っていましたが) お墓の形にも家の歴史があります。
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講演会の内容を少しだけ。 徳川慶喜は孫娘の喜久子(後の高松宮妃殿下)を可愛がっており、その姿は元将軍、最後の将軍というのではなく、一人の孫を愛でるおじいちゃんの姿でありました。 こういった歴史の中には、人間の関わりという物語があるというお話をさせていただきました。
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祖母の着物。結婚する時、美喜ちゃんにと。。。 祖母の実家、会津松平家のご紋付き色留袖。 徳川家、松平家は三つ葉葵が家紋ですが、会津松平家、徳川慶喜家、微妙に違います。 徳川家は12家あり、慶喜家、一橋家、水戸家、宗家などそれぞれ違う家紋です。 #会津松平家 #徳川慶喜家 #葵の御紋