山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(いいね順)

76
会津松平家に生まれ、徳川慶喜家に嫁いだ祖母。 最後は普通のマンション暮らしでした。 こんな暮らしになって、昔は良かったなぁって思うことないの?と、聞いてみたら。。。 「だってしょうがないじゃない。それが時代というものなのだから」 〜みみずのたわごと〜 #みみずのたわごと #徳川和子
77
徳川慶喜は様々な趣味があり、囲碁も嗜んでおりました。 華族の中で番付表まであるほどの囲碁愛好家の面々。 そうそうたるメンバーが名を連ねています。 慶喜は大政奉還後、遊び呆けていたと勘違いされますが、囲碁を通じて何かが動いたかも知れません。
78
徳川慶喜が寝床に入るシーン。 慶喜は寝相が悪くて、直すために父、斉昭の教育で、両側にカミソリを置いて寝かされてたとか。また右手を下にして寝る。万が一襲われても利き手である右手を守るため。。。 #大河ドラマ #徳川慶喜
79
祖父母の結婚 徳川慶喜家と松平容保家 徳川慶喜はむしろ政治家でした。その慶喜が語ったのは 「松平容保はまことの武士であった」 時代を超えての結婚は平和を望む声でした。 祖母の嫁入りには懐刀がありました。 自分を守るためではなく、家の恥になるような事があれば、自害できるよう。
80
徳川家のアルバムには徳川慶喜の写真が収められています。 金銀財宝ではないかも知れませんが、一枚一枚に込められた想い、時代という宝を表しているようです。 こんな時代を超えての今ですね。
81
徳川慶喜は大正2年11月22日に風邪をこじらせ、77年に及ぶ波乱の人生の幕を閉じました。 徳川慶喜が日本にもたらした功績を讃え、旭日桐花大綬章が授けられtました。 そして公爵徳川慶喜家は7男の慶久に受け継がれました。
82
家を継ぐという事は 負の遺産の連鎖でもあるのです。 どんなに家にお金がなくてもアレやれコレやれ、こうすべき と言われ続けた叔父の徳川慶朝は本当に辛かったと思う。 叔父が これ以上の苦しみは、後に残すべきでない と考えて、絶家を遺言とし、私は遺言執行人として務めています。
83
徳川慶喜の別名は興山公 慶喜は絵画にもいそしみ、油絵が何点か残されています。 オランダの風車 海外に行ったことがなく、しかしながら外国への憧れは強かったのではないでしょうか? 。。。めちゃうま!!( ゚д゚)
84
母の父〜徳川慶光 母の母〜徳川和子 祖父の父〜徳川慶久 祖母の父〜松平保男 祖父の祖父〜徳川慶喜と有栖川威仁親王、 祖母の祖父〜松平容保と水野忠敬 母は何という家に生まれたのだろう
85
私の持っている史料に 大政奉還後、ならず者の薩長との一戦は免れない。早いとこ制圧して。。。と思っていたら薩長に錦旗が上がったのを見て、朝敵になる事は出来ないとして、撤退した。 と書いてあります。 命が惜しくて逃げ出したのではないようです。 #鳥羽伏見の戦い #徳川慶喜
86
徳川慶久さまと実枝子様がご結婚の際の明治天皇陛下からの勅許 有栖川宮実枝子女王は皇族だったので、ご結婚の際には天皇陛下からの勅許をもって、結婚が整います。 この二人の結婚は時代を語る大切な縁談であり、万感の思いをもって多くの人に祝福されました。
87
徳川慶喜家 家系図
88
徳川家の銀の箸 一橋家時代、将軍時代には毒殺の可能性もありました。 食べ物に毒が入っていると銀の箸は変色します。 暗殺という恐怖を抱えながら生きなければならない人生は、たとえ将軍になったとしても幸せでしょうか。。。
89
徳川家に限らずなのですが、子供が産まれたら、名前とは別にお印というのがあります。 皇族で知られているとは思いますが。。。 祖母のお印は「まり」でした。 「まり印」のまり柄の風呂敷。 今も大切に使っています。
90
男爵 澁澤栄一著 徳川慶喜公伝 龍門社発行 渋沢栄一さんは徳川慶喜を心の底から尊敬してくださり、徳川慶喜のような立派な人は後世に語られるべきと考え、こうして伝記として編纂してくださいました。 #青天を衝け #徳川慶喜 #渋沢栄一
91
徳川慶喜の息子 慶久さま(左下)〜曽祖父 白樺派の作家、志賀直哉 (右下) 細川元首相の祖父、細川護立様 (後方真中) 幕末以降の交友関係は興味深いです。 他3名がどなたか分からないのが残念。 今で言う、プリクラ感覚で、こうして記念写真が残っているもの、時代が伝わります。
92
渋沢栄一翁(号は青淵)が生涯尊敬した徳川慶喜を伝えようと、伝記を出版してくださり、本当に感謝しています。 また、今回の大河ドラマで、渋沢栄一とその偉業が知られるようになった事も良かった事と思います。 歴史を知ると意義と価値が生まれます。 #青天を衝け #渋沢栄一 #徳川慶喜
93
曽祖母の徳川實枝子(旧名:有栖川宮實枝子女王) たまにあだ名で私のコトを姫と呼んでくださるのですが、本当のお姫様は實枝子さまだと思っています。 小さい頃から有栖川宮威仁親王両殿下に慈しみ育てられ、徳川慶喜家にお輿入れさた美しく品格のお有りになるお姫様 ニセモノと似ても似つかず。。。💧
94
徳川慶喜が乗っていた車 ダイムラー 当時は車が大変珍しく、 ダイムラー=徳川慶喜 徳川紋の駕籠からの進化系。
95
徳川慶喜が36歳の時の子、長女の鏡子(きょうこ)さまから、父慶喜へ宛てた手紙 (美しい封筒が思いやりを語る) 鏡子さまは実子として成長された最初の子。 田安徳川家四男 徳川達孝(サトタカ)さまに嫁がれるも20歳で亡くなります。 この時代、まだ生きるという事さえ困難な時代。
96
祖父母の時代、結婚式の翌々日の お里開き 結婚式を挙げた後、正式にお嫁さんの実家にご挨拶に行く風習。 きちんと大切にしていますという報告かと。 それだけ結婚は家同士の繋がりだったと思います。 祖母は懐刀(家を辱める事があれば自害〜という風習のお守り)を携えて、徳川家に嫁しました。
97
そして、徳川慶喜の孫と 松平容保孫が結婚したことは どれだけの人の心乗せてきたかと思います。
98
徳川慶喜は別名興山(こうざん)公と呼ばれていました。 引退してい約30年の間に、写真、投網、狩り、弓、絵画などを嗜んでいました。どれもが玄人レベル。 徳川慶喜の描いた風景画が現存しています。 この時代に日本で油絵を描いていた人は本当に少なかったと思います。
99
祖母の実家、会津松平家は子爵家で、東京の小石川区第六天町に家族で住んでいました。母は水野家から来た進子(ゆきこ) 公爵徳川慶喜家当主慶光との縁談が持ち込まれ、お見合いし結婚。 当時の会津松平家は洋館で立派な家の佇まい。 祖母は「同じ町内で結婚したのよ」と話してくれました。
100
徳川慶喜(曽々祖父) 徳川慶久(曽祖父) 徳川慶光(祖父) 色んな人とお話ししていると 徳川慶喜好き 徳川好き と話してくださり、とても有り難く思います。 私はどうか? と聞かれると 好き嫌いとして測る以上の物が 心の中にあります。 とお答えしています。