遠野市立博物館(@tonomuseum)さんの人気ツイート(リツイート順)

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妖怪と幽霊の出現する時刻 幽霊は「丑みつの鐘が陰にこもって響く頃」、妖怪は黄昏時や彼は誰(かわたれ)時の薄暗く、周囲の人や物がはっきりと見えない時間帯にあらわれるとした。 柳田國男著『妖怪談義』より
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神鏡  神霊のご神体として、また依代として神社の本殿に祀られる。本資料にはナンテンの葉がデザインされている。  ナンテンはメギ科ナンテン属の常緑小低木で、その音が「難転」に通じることから、厄除け、魔除けの効能があるとされた。 館蔵資料
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人形(ひとがた) 古来人々が病になったり、災いが起こるのは、罪や穢れが原因だと考えられてきた。 紙などで作られた人形で自分の体を撫でたのち、それに息を吹きかけて罪や穢れを人形に移し、それを川に流したり、燃やすなどして祓う呪術的処方が古代から行われてきた。 「遠野のひな人形」展示資料
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言葉と呪い 昔から日本では言葉には呪力があると考えられてきた。言霊ともいわれ言葉に宿る霊力が、言語表現の内容を現実に実現することがあると信じられてきた。言霊の信仰によって言葉を積極的に使って言霊をはたらかせようとする考えと、言葉の使用を謹んだり避けたりする考えとの二つの面がある。
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夏の遠野
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夏の遠野 遠野市青笹町
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荒神様 遠野市青笹町 荒神様は遠野の田園風景の中にたたずむ神社 春には茅葺の社が田の水面に映え、秋には黄金の稲穂に埋もれる。人々の祈りと生業とが一体となった遠野を代表する景観です。
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形代とは、 神霊が依り憑く依り代の一種で、人、器財、動物などを模してそれに代わるべきものを作り種々の呪術を行う道具。 人間の霊を宿す場合は人形を用いるなど、神霊が依り憑き易い形にするとされる。 疫病神や悪霊の依代とされて、村境に送られるワラ人形なども形代の一つである。 呪術展資料
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初夏の遠野 遠野市青笹町
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夏の遠野
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オシラサマは、桑の木等で2体1組のご神体を作り、主に家の神、養蚕神、目の神として信仰される。『遠野物語』によって養蚕の始まりを伝える馬と娘の話が広く知られるようになりました。 当館では、遠野を中心に東北各地のオシラサマ21組59点を展示しており、全国有数のコレクションとなっています。
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天狗の遺物 明治維新頃、米屋の万吉は花巻の鉛温泉で天狗と出会いました。お互いに意気投合をした天狗は、遠野の万吉の自宅をしばしば訪ねたといわれています。 これらの資料は天狗が最後に訪ねた時に形見として残した物で、天狗の下駄や湯呑などが伝えられています。 常設資料 天狗の下駄
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黄昏時は逢魔時(おうまがとき)といわれ、「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあう」(『遠野物語』8話)と伝えられてきた。  夕方の薄暗くなり、昼と夜の移り変わるこの時刻は、異界と現実世界を繋ぐ時間の境目とされ、魔物や妖怪がうごめき始めて災いが起きると考えられてきた。
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家の守り神(大工人形) 遠野では家を新築する際に、大工の棟梁が小さな御堂を作り、男女の人形を鏡やクシ、髪の毛などと共に入れ、封をして棟木に打ちつけ家の守り神とする風習があった。 佐々木喜善は、このようなモノの霊魂が座敷に現れるのではないかと推測した。 呪術展資料7/21~9/24
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これが四月の遠野です❄️
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山の神 山仕事に携わる人々は、山の神を畏れ敬い、伝承や禁忌を守ることによって無事に仕事ができると信じてきた。  12月12日は山の神の年取りといって、山の神が自分の領分の木を数える日なので山に入ってはならないとされる。山に入り、木に数えられると二度と戻って来れなくなるという。 常設資料
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忌言葉 特定の時や場所で口にしてはならない言葉やその代りに用いる言葉で、猟師が山で使う山言葉や漁師が海上で使う沖言葉などがある。 神や神聖な場所に近づく際には不浄なものや行為を避けるだけでなく、それを言葉にすることも忌み、代用語を用いたことから生み出されたとされる。 常設 狩の装束
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九字 「臨兵闘者皆陣列在前」の九つの文字から成る呪文。元来、山に入るときの魔よけの呪文であったが、護身の呪文として用いられるようになった。 九字を唱えながら神仏を表す印を結んだり、刀を表現する指の動きで縦横に切る動作などが用いられる。縦横の線は結界で魔除けの効果があるとされた。
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夏の遠野
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呪文と呪物 呪力を発揮させるために唱えたりお札に書かれる言葉を呪文という。また、呪文を書いた御札やお守り、店先に置かれた招き猫など、それ自体が呪力を宿したものを呪物という。 狩猟のお守り
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ザシキワラシは「室内を歩くには通路が定まっていて、それ以外には決して歩かない。人がその通路を知らずに寝るようなことがあれば、きっと唸されたり、また何か悪戯をされるという。」 『奥州のザシキワラシの話』
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「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」 明治43年に出版された『遠野物語』の序文に記された柳田國男の言葉です。『遠野物語』は日本民俗学の夜明けを告げた原典として、現在も国内外で高い評価を受けています。
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「川の岸の砂の上には河童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。」 『遠野物語』57話より 重湍渓 遠野市附馬牛町
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天狗の遺物 明治維新頃、花巻の鉛温泉に湯治に行った米屋の万吉は、天狗と出会いました。お互いに意気投合をした天狗は、万吉の自宅をしばしば訪ねたといわれています。 これらの資料は天狗が最後に訪ねた時に形見として残した物で、天狗の下駄や湯呑、天狗が書いた書などが伝えられています 常設資料
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オシラサマと託宣 巫女の婆様は、徐ろに神体を手に執つてオシラ遊びを行ふのである。それには昔から言ひ伝へのオシラ遊びの唱へごとがあつた…両手でぐるぐるまはして各自一年の吉凶を占つた。即ち此神の持前のオシラセを受けようとするのであつた。 「遠野物語拾遺」79話 大正時代頃のオシラ遊ばせ