現状を否認し、責任逃れのためのこの言葉遣いには辟易とする。どこまで「ことば」を破壊すれば気が済むのか。ことばが壊れれば、社会そのものへの信頼が著しく損なわれることに、思いが及ばないのか。失われた信頼を回復するために必要な、途方もなく長い時間を想像すると頭がクラクラする。 twitter.com/tokyonewsroom/…
これが「スポーツウォッシング」です。ここまであからさまなのに憤りも危機感も感じないスポーツ関係者は、取り込まれてるんですよね、もう。スポーツを守ることより強者の側に立つことを選んだんです。 選手の活躍「政権に力」 五輪開催で自民河村氏 | 2021/7/31 nordot.app/79412748983987…
そう、いままざまざと見せつけられているのはまさに「統治の崩壊」。それへの無力感がこの身にまとわりついている。それを振り解くには「怒髪天を突く怒り」が必要だという白井氏の主張に、僕は同意します。 twitter.com/shirai_satoshi…
主に少年犯罪を扱う弁護士から、スポーツ推薦で進学した生徒や学生が挫折を機に犯罪に手を染めるケースが後を絶たないと聞いた。いとも簡単にアイデンティティが崩壊するその様を、とても心配しておられた。成長期の子どもに相応しいスポーツのあり方を、早急に模索しなければならないと思う。 twitter.com/rao_rug/status…
「地獄に続く道は善意で敷き詰められている」。社会正義の実現、あるいは正論の主張は、その思惑とは反対の結果をもたらすことは歴史が証明している。それをわかりながらもなお、声を上げている切なさは、わかっていただきたいと思う。
僕がここまで五輪に反対の意を示し続けるのは、社会を慮って居ても立ってもいられなかったから。ただそこには自分を守りたいというエゴも含まれている。この身勝手さは否定し難い。→
中日を迎えたいまは、”楽しもうにも楽しめない“、“楽しみたくても楽しめない”というツラさが心を覆っている。人生のほとんどをスポーツに費やしてきた過去が無意味に思えるほどやるせない。僕にとってスポーツとはなんだったのか。それすらも不明瞭になった感がある。→
東京五輪の中止と五輪そのものの廃止を訴えつつ、いざ開幕したらどんな気持ちになるのだろうかと、自らの胸の内を観察しようと思っていた。スポーツを楽しむことと、五輪に反対することは両立する。だから、そこそこ楽しんでいる自分がいるのかもしれない。そう想像していた。→
寂しいけど、これが現実なんだよな。社会と切り離されたところにスポーツはあって、それを自覚している関係者が絶望的に少ない。多様性とか調和とかの概念は、社会へのまなざしがあって、かろうじて実現の道が開かれるのに、そのまなざしが共有されていない。ここにもまた無力感が湧いてくる。 twitter.com/chihiro_nishi/…
過酷な競争は心に悪影響をもたらす。だから競争は「丁寧に」扱わなきゃいけないんです。 重圧、バブル、無観客…五輪選手メンタル悲鳴 メダル目標撤回も | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20210…
どれだけの人が傷ついたのか、それを想像するとことばが出ない。これだけ無茶苦茶でも開幕した事実は消えない。 台本11冊を入手 五輪開会式“崩壊” 全内幕 計1199ページにすべての変遷が #週刊文春 bunshun.jp/denshiban/arti…
「僕は今でも五輪は中止・延期と考え、同時に内外の選手達の努力の結果を称えるつもりでいる」 「五輪利権のために国民の命を賭ける、史上初の政府を今私達は目の当たりにしている」 【寄稿】五輪利権のため国民の命賭けた政府 作家・中村文則さん:東京新聞 TOKYO Web tokyo-np.co.jp/article/119747
1964年に小学生だったのは、いまの64歳から69歳。つまり63歳以下の人たちは当時を知らない(憶えていない)。だから「五輪で絆を、一体感を」という謂いには、いまいちピンときていないのではないか。つまり「絆とか一体感」に期待するのは64歳以上の人たちだけで、この温度差は拭いがたい。→
思いっ切り水を差しますけれど、これは五輪憲章違反です。たぶんメディアもわかってやっているとは思いますが、競争を煽る報道はもうやめにしませんか?こういう積み重ねが勝利至上主義を加速させるんです。「競争」は丁寧に扱わないとスポーツの本質が損なわれます。 www3.nhk.or.jp/news/html/2021…
BBCから取材を受けました。明日23日(土)朝6:30(現地時間22時30分)からのNewsnightという番組内で取り上げられる予定です。内容はもちろん東京五輪について。急に舞い込んだ依頼だったのでバッタバタでしたが、なんとか乗り切りました。
「我々に任命責任があるのは間違いないが、我々が1人1人選んだわけではない」 これって逆だよね。 「一人一人選んだわけではないが、責任は我々にある」って言わなあかんと思う、統括する立場としては。 daily.co.jp/olympic/tokyo2…
メダル予想とか、活躍が期待できる選手をクローズアップする記事がにわかに増えてきました。五輪礼賛ムードが粛々と作られ始めているのを感じます。観戦を楽しむのは個人の自由ですけど、五輪開催にまつわる実にさまざまな問題は決して忘れてはならないと思います。
「発言に責任を持つこと」、「弱き者に『惻隠の情』を持つこと」、そして「言葉は正しく使うこと」。僕たちが身を寄せ合いながら生きる社会には守らなければならない不文律がある。それらが悉く踏みにじられつつあることに、義憤が湧く。→
だからいまは無理に冷静さを装うことなく怒っていいし、むしろ怒らなければならない。社会そのものに亀裂が入っているのだから、それを修復するためにまずは声を上げなければ。→
おかしいと思うことにはちゃんとおかしいと言う。言い古されたこの正論を、日々の生活のなかでいまこそ実践するときなんだ。静かに怒り続けることで、少しづつだが社会はよくなる。少なくとも僕はそう信じている。
日々、目にする情報に精気が吸い取られるように感じるのは、社会的倫理観が次々と壊されているからだと思う。「質問には書面を棒読みするのではなくできるだけ自分の言葉で誠実に語ること」、「他人に強いたルールは自分も守ろうとすること」、「公人たる者は『李下に冠を正さず』を心得ること」→
僕もコメントしました。「スポーツを楽しむこと」と「五輪に反対すること」は矛盾ではなく同時に成立することがわかる記事です。ぜひ、ご一読を。 twitter.com/tokyonewsroom/…
これは決して忘れてはならないことです。一部の人たちが莫大なカネを手にするために、尊い命が犠牲になっている。他にも、足場の上でつい眠って落下しないように互いの頬を張り合っていたと、ある週刊誌が報じていました。これだけの無理を強いてまで五輪を開催するのは、やはり間違っています。 twitter.com/NatsukiYasuda/…
IOCはアスリートと社会の分断を巧みに操作してきました。それに踊らされてはならないんです。踊らされないためには、まず過去を知らなければなりません。分断を回避する道筋を、僕はこれからも探り続けようと思っています。