101
この時のコレラの流行では、日本は横浜の欧米人から手洗いの徹底などを進言されたもののそれを無視したことが大流行につながったとの見解もあるそうです #青天を衝け
103
文禄5年(1596年)伊達政宗が浅野長政(長吉)に絶縁状を送り付けたことで始まった伊達家と浅野家の絶交。これは江戸期に入って当事者達が亡くなっても続き幕府は何度か両家の間を取り持とうとしたが全て拒絶。両家が終に和解したのは何と398年後の1994年
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
104
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(講談社選書メチエ)にある、細川先生の北条義時評。細川先生は中世史研究者界隈でも、最も義時に同情的な方だと思う。
#鎌倉殿の13人
105
えっ…
ええ…?
>捕らえられ、身体改造の末、全身からローションが出続ける体になってしまった信長。
そこに脱出の好機が訪れる!しかし、ローションのヌメりにより歩くこともできない...
壁を蹴ることで逆にヌメりを活かして滑り、敵の攻撃をかいくぐり、出口へ向かえ!
store.steampowered.com/app/1291370/_/
106
『吾妻鏡』建久4年8月2日条
謀反を疑われた源範頼は兄頼朝に忠誠を誓う起請文を提出。しかしこれを見た頼朝は、範頼が「源」姓を名乗っている事に対し、「もし(頼朝の)一族のつもりで居るのなら頗る過分の考えである」と不快感を表明。このことに範頼は周到狼狽したとあります。
#鎌倉殿の13人
107
この義昭二条城は信長が陣頭指揮して、突貫工事したことは有名ですが、実は完成させたのは石垣までで、内部の建物等は、その後割とゆっくり建築されています。信長としても「石垣が出来ていれば城として機能する」と考えていたようです #麒麟がくる
108
日本人は何故暴動しないのかみたいな話が流れてましたが、別に歴史的にも日本人が他と比べて我慢強かったりする訳ではないですね。首都圏国電暴動とか見ても横暴と捉えられる行為にはあっという間に蜂起する。まあこれは「反体制の横暴」に対しての蜂起なのでそちら方面からはノーカンなのかもですが
109
実は「ペリー来航」について、イメージと異なり幕府側は充分に相手を調査し準備をした上で対応しており、ペリーはほとんど得るものの無いまま返されました #青天を衝け
110
ライ麦や燕麦が、もともと小麦畑の雑草であったのが、雑草が人間によって引き抜かれる中に、たまたま小麦と似た形状に進化したものが出て、そのため人の目をごまかし雑草として駆除されることを免れ、あまつさえ穀物化した、という話は面白いし進化の不思議さも詰まってる。
111
この時の奏上で近衛前久は足利義昭からめちゃめちゃ恨まれて、彼の上洛後京を追放されます #麒麟がくる
112
このあたりから頼朝と義経の関係に齟齬が出来たというのはわりと古典的な解釈で、昨今では、この時期は未だ頼朝も義経も信頼しあい関係も良好だった、という考え方が主流だと思います #鎌倉殿の13人
113
「織田様の手先になってから戦戦戦…」
実際、織田信長に従った大名国衆で謀反するものが多かったのは、前線地域での過剰な軍役の負担に領民が耐えられなくなり、その地域の領主が領民を繋ぎ止めるために信長から離脱、というパターンが多かったとも言われます #どうする家康
114
この時信長は佐久間信盛を始めとして当時相当に重用し信用していたと考えられる人々を家康への援軍として送っているので、少なくとも外面的にも、信長が家康を救援する意思はかなり強かったと考えられます #どうする家康
115
幕末に、幕府が不人気だったということについて、結局幕府が行った「開国」は、当時の一般庶民の視点からは、インフレや疫病といった、不利益ばかりをもたらした、百害だらけの政策だったわけです。だからこそ、それを是正しようとした長州などが「世直し勢力」として人気がありました。彼らこそ
116
伊予守は、頼朝、義経ら河内源氏の祖である源頼義が叙任されている源氏ゆかりの官職であり、「四位上﨟」と称される受領の筆頭格でして、大変な厚遇と言えますね
#鎌倉殿の13人
117
前にも言ったことがありますが、この頃の天皇家の「困窮」というのは、「年収数千万円で上流階級の生活をするだけなら問題はないが、数十億かかる国家的儀式を行うには足りない」という感じですね #麒麟が来る
118
実は『吾妻鏡』は、源範頼が曽我事件の黒幕であった、という印象の強い記述をしています。
#鎌倉殿の13人
119
確かに、『戦国○大梟雄』と呼ばれていた人たちの多くが「実際にはそんな事無い」「ほとんど後世の創作」みたいな形で梟雄レースからどんどん脱落していく中、斎藤道三だけは「間違いなく同時代から悪人」「むしろ後世のほうが人格的にマイルドにされてる」と評価を上げ続けている(?)の強い
120
足利義昭がボランティアに勤しむ慈愛に溢れた若者とかそんな設定誰も考えないだろw #麒麟がくる
121
水戸浪士たちも「斉昭様のため」と桜田門外の変を起こしたが、当の斉昭はそれを全く望んでいなかったという #青天を衝け
122
まあ実際には三方ヶ原まで、北条や上杉謙信と同盟したり武田と織田の婚姻を邪魔したりと信玄の神経を逆なでし続けたのが家康なんですけどねw #どうする家康
123
坂下門外の変で安藤信正は生き延びますが「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けぬ」などと批判され、結果的に老中を罷免されました。武士とは老中でもそういうものだったわけですね #青天を衝け
124
あ、ちなみに光秀は信長から比叡山旧領の領有を認められたのを良いことに、山門領だけでなく、門跡領も横領したため、正親町天皇から直々に信長に抗議されております #麒麟がくる
125
「キリシタン大名」という言葉があり、これは中世末、近世初期にキリスト教を信仰した大名を指すのですが、この言葉のイメージと異なり、実は「キリシタン大名」と呼ばれる人たちの殆どは、キリスト教と並行して、仏教や神道の信仰も継続しており、決してキリスト教だけを信じていた訳では無いのですね