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あ ん な 辛 気 臭 い 男
#鎌倉殿の13人
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ちなみに「徳川家康は織田信長に従属した存在であり家康が武田に喧嘩売ってきてるのは信長が背後で操っているんだよ!!!」というのは甲陽軍鑑などに見られ、つまり「武田史観」なのだと考えられます
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後の秀吉との和睦の時にこの源三郎くんを人質に出そうとしたら母親の於大の方が猛反対したフラグ #どうする家康
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早くも13人から12人に
#鎌倉殿の13人
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『信長公記』は、後世編纂の軍記物ながら史料として高く評価されていて、一部界隈ではある種の絶対的権威と扱われていたりしますが、あの本、例えば足利義昭について、京都追放以後は「存在していない」ものとして活動を完全無視しており、信長美化のためにそう言う事をする本である、との認識も必要
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日本にキリスト教がいまいち広まらない事に、やはりどこか「一神教」というものへの警戒感が今も残っている感があるのですが、カトリックなんて実質多神教以外の何物でもないので、仏教と同じようにカトリックの聖人が日本の神々に「本地垂迹」したと再設定すれば信仰するハードルは相当低くなると思う
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関ヶ原の西軍を「豊臣方」とする考え方が今も根強いですが、その総大将である毛利輝元は明らかに「秀吉の体制をぶっ壊す」側だというのがまた
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武士、特に鎌倉武士は「一所懸命」が特徴だとされがちですが、昨今では武士は農民、在地の生産に直接関わることのない都市的な存在であると理解されており、である以上この言葉も一ヶ所の所領を守るというより、「恩賞としての所領を一所でも多く得る事に懸命になる事」と理解したほうが良い気がする
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まあこの「事件」から割とダイレクトに信康事件、築山殿処分につながりそう #どうする家康
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あ、ちなみにこの腰越状の宛先である『因幡前司殿』とは、大江広元の事です #鎌倉殿の13人
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敵城下への忍といえば、後に家康に重用される藤堂高虎(身長2メートル)が小牧長久手の頃、土工夫に変装し浜松城下に密かに忍んで偵察していた所、家康に一目で見抜かれた、という逸話があります。何故バレないと思ったのか
家康はひと目で怪しい奴と睨み iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-850…
#どうする家康
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マジかよ団子屋のババアの逸話持ってきたかw #どうする家康
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つまり鎌倉幕府とは、武士と言っても本来的にはその一部に過ぎない、頼朝の挙兵に与した坂東武者とその子孫の利益を代表する組織でしかなかったわけですね。
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本多忠勝の父・忠高は、天文9年、松平の安祥城攻めの最中に討ち死にしていますね #どうする家康
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秀吉の『唐入り』も、最初は「中国本土に攻め込み占領する」だったのが、後半は「朝鮮半島に領地を得る」に目的が変わった事を思い出した。 twitter.com/asahicom/statu…
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『信長公記』の著者として有名な太田牛一。この「牛一」という名前、読みは「ぎゅういち」とも「うしいち」とも言われるが、さらに「うしかず」「うしかつ」「ごいち」という読みだという説もある。もうわけがわからーぬ
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コッペパーン
#大河オタクにしか通じないフレーズ選手権
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うわー、これはまさか全部義時の罠か? #鎌倉殿の13人
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日本の城というより中華帝国の宮殿みたいだ #どうする家康
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実は秀頼と淀君の助命を受け入れていた…教科書には載っていない徳川家康の豊臣家に対するホンネ 豊臣家の断絶を望んでいたわけではなかった #プレジデントオンライン president.jp/articles/-/637…
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ちなみに信長の上洛戦のとき、徳川の援軍が織田家の部隊と略奪した烏帽子一つを巡ってあわや合戦騒ぎになったという話が三河物語に出てきます
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家康に至る松平氏の祖が、三河物語ソースの漂泊の僧・徳阿弥、という話よりも、『松平氏由緒書』にある「土木技能集団」であったという話こそが歴史ロマンってものだよなあと思ってしまうのだが中々共感を得られない
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ユダヤを持ち出すのは様々な意味でロマンが有るのでしょうけど、正直文献史料も伝承も無い以上、発想の飛躍に過ぎるという感が。
日本の城跡から見つかった謎の地下室 ユダヤ教の沐浴施設の可能性:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASQ9L…
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#どうする家康 について、ドラマとしては期待したいと思っていますが、近年大きく進んだ家康や戦国時代に対する研究成果が反映されるかどうかについては、正直な話全く期待しないという防御姿勢で視聴する所存。