まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(古い順)

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「征夷大将軍」が、武家の棟梁を象徴する官位として成立するのは、鎌倉、南北朝を経て室町の前期くらいですね。 #鎌倉殿の13人
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歴史上、武士社会における「源頼朝」登場のインパクトというのはやはり物凄いものがあって、後に武家を統率する立場の者達が、征夷大将軍やら右近衛大将やらに任官するのも、要は「源頼朝の立場を継ぎます」という表明なんですよね  #鎌倉殿の13人
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北条時政「ありゃただの敵討ちだ」 自力救済がごく自然に根付いた社会じゃないとこんなセリフは出ませんねw  #鎌倉殿の13人
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「成長著しい金剛」メタ過ぎるw  #鎌倉殿の13人
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頼朝らの宿舎に侵入した曾我祐成は仁田忠常に討たれたわけですが、この仁田忠常は北条時政の側近であり、ここから、曾我祐成は、頼朝ではなく北条時政の命を狙ったとする説もあります。 #鎌倉殿の13人
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曽我事件の知らせが鎌倉にもたらされた時、源範頼が北条政子に「自分がいれば幕府は安泰」と言い、これが大きな失言とされたという話は『保暦間記』に出てくるのですが、これは貴重な史料ながら吾妻鏡よりさらに後世に編纂された歴史書であり、一概に事実とは言いがたくもあります #鎌倉殿の13人
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実は『吾妻鏡』は、源範頼が曽我事件の黒幕であった、という印象の強い記述をしています。 #鎌倉殿の13人
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『保暦間記』に先立つ『吾妻鏡』が、源範頼が曽我事件の黒幕だったと察せられる記述をしていて、保暦間記もその影響を受けた表現と考えたほうが自然かなあとも
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そういえば、北条義時が現状どんな立場で頼朝の政権に参画しているかというと、彼は「家子専一」、つまり頼朝の親衛隊長という立場なんですね。江戸期で言うと旗本筆頭といった所でしょうか。 #鎌倉殿の13人
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足利義昭が武田信玄の西上を契機に織田信長を切り捨てて反信長派に乗っかったことは、室町幕府滅亡に繋がる大きな判断ミスと評価されがちですが、室町将軍というのは劣勢になった味方を切り捨てるという事を基本的にずーーーっとしてきた人たちであり義昭はむしろ我慢しすぎたとすら言えたりしますな
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馬よりも何よりもエリザベス2世のインパクトが強すぎる twitter.com/RacingPost/sta…
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そもそも秀吉の出自を「農民出身」と安易に言っちゃう時点で既に学問的な話ではないよね #なんか見た
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『吾妻鏡』建久4年8月2日条 謀反を疑われた源範頼は兄頼朝に忠誠を誓う起請文を提出。しかしこれを見た頼朝は、範頼が「源」姓を名乗っている事に対し、「もし(頼朝の)一族のつもりで居るのなら頗る過分の考えである」と不快感を表明。このことに範頼は周到狼狽したとあります。 #鎌倉殿の13人
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ドラマの中では省略されましたが、『吾妻鏡』建久4年8月10日条によるお、範頼の家人・当麻太郎が、範頼の起請文への反応がないことに不安になり、頼朝の寝所の下に忍び込むという事件を起こし、この事で頼朝は範頼の叛逆を確信したとされます。 #鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』建久4年8月17日条~。範頼は伊豆へと配流されますが、翌18日には範頼の家人たちが不審な動きを見せたとして誅殺、さらに20日には曾我祐成の同腹の弟とされる原小次郎という人物が範頼に縁座して殺されており、曾我事件への範頼の関わりを強く臭わせる描写となっています #鎌倉殿の13人
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範頼は建久4年8月17日に伊豆へと配流されますが、実は『吾妻鏡』で範頼の消息が解るのはここまでで、彼が誅殺されたというのは吾妻鏡より後世に編纂された『保暦間記』などに初めて出てくるものであり、今回の脚本はそれを取り入れたものですね #鎌倉殿の13人
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「歴史が役に立つのか」という話が色々波紋を呼んでいるようですが、歴史というものは端的に地域、社会、国家、或いは世界が現在に至る「経緯」であり、それぞれの経緯を正確に把握することは、将来に向けての筋道も、より摩擦のない形で指し示す事が出来るわけで、非常に重要な学問だと考えています。
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逆に言えば現在社会における大小様々な「問題」が、何故そうなったという経緯、すなわち「歴史」を理解しなければ、それを解きほぐすための手順も見えてこないわけですね。「問題」も様々な積み重ねによって出現するわけですから。
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戦国史に限りませんが、体制を覆す側、下剋上をする側の方が「有能かつ進歩的」であり、体制側、下剋上をされる側が「無能で保守的、退嬰的」という考え方、或いはイメージはいわゆる進歩主義史観の「公式」に歴史を当てはめたにすぎず、その実態とは正直あまり関係ありませんね。
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『信長公記』は、後世編纂の軍記物ながら史料として高く評価されていて、一部界隈ではある種の絶対的権威と扱われていたりしますが、あの本、例えば足利義昭について、京都追放以後は「存在していない」ものとして活動を完全無視しており、信長美化のためにそう言う事をする本である、との認識も必要
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よく「敗者の歴史」なんて言いますが、僕の知る限り、「勢力」として生き残った場合、勝者より敗者の方が自己正当化のために「歴史」を広く恣意的解釈しがちであり。
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確かに、『戦国○大梟雄』と呼ばれていた人たちの多くが「実際にはそんな事無い」「ほとんど後世の創作」みたいな形で梟雄レースからどんどん脱落していく中、斎藤道三だけは「間違いなく同時代から悪人」「むしろ後世のほうが人格的にマイルドにされてる」と評価を上げ続けている(?)の強い
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戦国大名の「改姓(改名字)」といえば、伊勢→北条、長尾→上杉、松平→徳川、斎藤→一色、なんかがありますが、斎藤→一色からだけは家格上昇のポジティブさよりも、ネガティブな要素をどうにか覆い隠したいという意図を感じなくもない。
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頼朝の死は鎌倉幕府史上でも最大級の重大案件にもかかわらず、『吾妻鑑』ではその部分は欠落してますが、一方『保暦間記』では、頼朝の死は落馬などではなく、彼が今まで滅ぼしてきた源義広、義経、行家、そして安徳天皇を始めとした平氏の怨霊などによって呪い殺されたのだとあります #鎌倉殿の13人
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すなわち『保暦間記』成立の頃だと、源頼朝という人物は、それほど悪業の深い人物でも有ったと認識されていたと言うことですね #鎌倉殿の13人