まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(古い順)

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梶原景時について、「石田三成みたい」という印象を持つ人も結構いるようですが、そもそも現在の石田三成イメージの源流が、江戸期に「奸臣」の代表とされた梶原景時のキャラクターをベースに作られたものであって、景時と三成のキャラクターが重なるのはむしろ当然なんですね。
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梶原さんまっとう過ぎてこれは嫌われますわ #鎌倉殿の13人
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逆にこういった事が割りとスムーズに処理されていた頼朝の有能さという事でもありますね #鎌倉殿の13人
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こちらが梶原景時による結城朝光讒訴事件を表した『吾妻鏡』正治元年10月25、27日条ですね #鎌倉殿の13人
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そしてこちらが、梶原景時による結城朝光讒訴事件を受けての、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状について記された『吾妻鏡』正治元年10月28日条 #鎌倉殿の13人
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こちらが将軍頼家より連判状を見せられ弁明を求められた梶原景時が、弁明せず、所領である相模国一宮に退去したことが記された『吾妻鏡』正治元年11月12、13、18日条 #鎌倉殿の13人
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早くも13人から12人に #鎌倉殿の13人
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先週13人合議制が成立して今週早くも人数が欠ける。これぞ初期鎌倉幕府。天下草創は未だ終わっていないわけですね #鎌倉殿の13人
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鎌倉幕府があくまで「坂東武者のため」ものであることを今回再認識していましたね。実際に鎌倉幕府はその終焉まで、頼朝の挙兵に従った御家人とその子孫のための組織であり続けました #鎌倉殿の13人
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鎌倉幕府の成立、或いは承久の乱を以て一般に「武士の世」の到来とされますが、実はこれは半分正しくなく、鎌倉幕府が「御家人」として組織したのは頼朝の挙兵、創業に参画した武士とその子孫だけであり、その他の武士は結果的に鎌倉幕府の終焉まで、幕府を構成する御家人とは認められませんでした
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つまり鎌倉幕府とは、武士と言っても本来的にはその一部に過ぎない、頼朝の挙兵に与した坂東武者とその子孫の利益を代表する組織でしかなかったわけですね。
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「関ヶ原」についての論争、「小山評定」についてはもう言葉の枝葉みたいな話になってて、小山だったかどうかはともかく「評定自体はあった」で良いと思う。あと関ヶ原の合戦では1、2時間程度であっというまに西軍が崩壊した、という部分は信憑性高いと思う。
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有名な所領一直線分割 #鎌倉殿の13人
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ちなみに北条泰時ですが、彼の孫に川端舎人助道政を名乗る者があり、この子孫が、ノーベル文学賞作家の川端康成とされます 北条泰時豆知識 #鎌倉殿の13人
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徳川家康と今川義元の関係性について、家康が桶狭間周辺を通る時は義元への敬意を顕して必ず下馬していた、という話が割りと多く残っており、これも基本的には「家康は驕らない人物だった」と家康褒賞目的の逸話なんですが、それでも家康が義元を慕いこそすれ恨む対象では無かった事は伝わりますね
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まあ家康の話に限らず、戦国武将(にも限りませんが)について現代人が面白がったりドラマチックに感じたりするような逸話はその殆どが後世の作り話と捉えておいたほうが良いですね。逆に、後世の作り話だからこそドラマチックで面白くしているわけです。
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足利義稙(義材、義尹)は、波乱万丈でドラマチックな活躍がありながら、いまいち世間的評価が低くなってしまうのは、知名度という以上に彼が征夷大将軍として君臨したい以外に、何をしたかったのか正直良くわからないという点の影響が強い気がする。
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五月十九日、阿野全成に謀反の疑いありとして、源頼家によって派遣された武田信光により捕縛され、常陸国に流罪となったことを伝える『吾妻鑑』建仁三年(1203)五月条 #鎌倉殿の13人
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この時、実際に政子は阿野全成の妻である阿波局を保護。二十日に阿波局を出頭させるよう要請されるますが、ここで政子側は「阿波局は阿野全成が二月に駿河に下向して以降音信不通であった」と主張し、これを拒絶しています。
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比企氏は木曽義仲が有していた権益を全て任されていた、とも言われますね #鎌倉殿の13人
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六月二十三日、八田知家によって阿野全成が配流先で誅殺されたことを記す『吾妻鑑』建仁三年(1203)六月条。 翌二十四日には、京に在った阿野全成の三男である阿野頼全も在京御家人によって殺害されています。 #鎌倉殿の13人
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そして三十日には、鶴岡若宮宝殿の屋根からカラバトが落下して死んだという事があり、人々は奇異に思ったとされ、翌七月条では四日、九日と立て続けに鶴岡八幡宮境内において土鳩、鳩の怪死事件が記録されており、当時の鎌倉の、怯えを含んだざわついた空気を感じさせます。 #鎌倉殿の13人
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まあアレだ 「ね、頼朝の存在って物凄いものだったでしょ?」 #鎌倉殿の十三人
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ふと思ったが、三重県あたりは『伊勢界転生』というネタをやってみてはどうだろうか。トラックに跳ねられて気がついたらそこは見知らぬ「伊勢界」。それとも寡聞なだけでもうやっているのだろうか。
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#鎌倉殿の13人 で八田知家に注目が集まった結果、その子孫である小田氏治を再び「史上最弱の戦国大名」みたいに言ってる向きも間々見られるようになりましたが、まあ本当に弱かったらあんなに負けられないんや、局地的な合戦の結果で強い弱いを測ってはいかんのや、という気持ちにも