376
吾妻鏡には「この時義盛は逆心を考えた」とあります
#鎌倉殿の13人
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しかし義村の手腕で三浦が大きくなりすぎたことが後々… #鎌倉殿の13人
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和田胤長の鎌倉の屋敷は没収されましたが、その屋敷は一族である義盛に引き渡されました。ところが4月2日に北条義時は突然これを覆し別の者に与え、屋敷に在った義盛の代官を追い出したとあります。
#鎌倉殿の13人
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実朝、義盛とずーっと仲のいい描写してきたのがここで効くんだからホント脚本が凄いわ #鎌倉殿の13人
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そういえば和田さん、牧氏の変のとき実朝に「起請文なんて書いても後で破いちまえばいいんですから」と言ってましたなー
#鎌倉殿の13人
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戦国の焼き討ちツートップと言っていい人たちがここまで言うのですから守りませんとねw
twitter.com/ashikaga_city/…
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戦国期、有力国衆であっても大勢力の参加に入ると、わりと存在感が見えなくなったりするものなのですが、徳川家康という人は織田や豊臣という大勢力の参加に入っても存在感が減るどころか、むしろどんどん増していく感があり、やはり個人としても、非常に優秀な人だったのだとも思う。
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関ヶ原の時、西軍が敗北した後でも秀頼を奉じて大阪城に籠もれば(東軍の豊臣恩顧は秀頼を攻めることが出来ないので)勝機はあった、みたいな事が言われたりもしますが、「幼君」を奉じようが敵対勢力であれば「普代」であっても平気で全然攻めますからね。そもそも秀吉がそういう事をやっている。
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起請文を吐くとはw
『吾妻鏡』健保元年五月二日条
三浦義村兄弟が当初和田義盛方であり、起請文まで書きながら裏切って北条義時に付いた事がバッチリ書かれています。
#鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』健保元年五月二日条
和田合戦の勃発を知った北条義時はその時ちょうど囲碁をしていたが、この情報を聞いても驚き慌てる事無く、心静かに碁盤に石を置いたあと座を立ち、折烏帽子を立烏帽子に改め装束も水干に着替えて将軍実朝の元へ参ったとあります
#鎌倉殿の13人
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さすが毛利元就公のご先祖
#鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』健保元年五月三日条における義盛の最期
酉の刻に愛息である四郎左衛門義直の討ち死にを知った義盛は「年来義直を愛しその将来を願っていた。今に於いては合戦を励む事も無益である!」と声を上げて泣いた。これに周囲が戸惑っていた所に、江戸左衛門尉義範によって討たれた #鎌倉殿の13人
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和田合戦が、ある種の終着であり起点にも成っていましたね #鎌倉殿の13人
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『愚管抄』巻六によると、「和田義盛という「三浦の長者」が、北条義時を深く嫉みかねてからこれを討とうと考えていたが、れが発覚したため俄に挙兵した。しかし義時の屋敷には将軍実朝も在り、実朝が和田軍の前に立ちふさがって戦ったため、鎌倉の名の有るほどの武士は皆義時方となり
#鎌倉殿の13人
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二日戦って義盛の頸を取った。彼に同調していた児玉、横山といった武士たちも皆失せた。
その後、源頼家の子で、十四歳の僧となっていた子があったが、この子の元に義盛方の残党が集まり彼を立てて挙兵しようとしたため、彼らも皆討たれた。十四歳の禅師が自害するなど恐ろしいことだ。
#鎌倉殿の13人
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『明月記』健保元年五月九日条には、先の泉親衡の乱の首謀者が和田義盛でありその残党が彼のもとに集まっている、という風聞や落書が出て、義盛はこれについて弁明し一端は収まったものの、義時側で内々に義盛討伐の密議があり、これを知った義盛が挙兵したのだ、とあり、
#鎌倉殿の13人
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しかしこの、武士の時代の草創を描いた大河から、中世の武士の有り様を結果的に総決算させた家康の大河につながるのは偶然とは言え面白いですね。今回の和田義盛や実朝たちの叫びも、家康が受け止める事となるのでしょう。 #鎌倉殿の13人
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現場でもそうだったのかw
>13人の宿老による政治のメンバーを選ぶときに三浦義村が言った「もうすぐ死にます」というセリフは、現場でみんな、ちょっと呼吸ができないくらい笑ってましたね(笑) #鎌倉殿の13人
nhk.or.jp/kamakura13/spe…
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これはいい記事だなー
「鎌倉殿の13人」で最高で最悪の別れを演じた横田栄司と柿澤勇人…3年前の舞台でまかれていた三谷マジックの種(スポーツ報知)
#Yahooニュース
news.yahoo.co.jp/articles/7835e…
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谷口雄太先生の『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』より。やはり『バンデット -偽伝太平記』がこの界隈に与えた影響の大きさを感じざるをえないのであるw
足利将軍と御三家
yoshikawa-k.co.jp/book/b612232.h…
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中世武士の性格を定義する上で『舐められたら殺す』は専門家が見ても端的に「これだ!」というセリフだったんですよね。
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『吾妻鏡』建保4年(1216)6月条によると、東大寺大仏の再建を担った宋人の僧、陳和卿が鎌倉に来て「当将軍(実朝)は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」などと言い出し、
#鎌倉殿の13人
400
15日に実朝が対面すると、陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。そして実朝は、彼が門弟として仕えた宋朝医王山の長老の生まれ変わりであると言う。実朝はかつて夢の中で高僧に同じことを言われており、陳和卿の言う事を信じた
#鎌倉殿の13人