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この事体に北条時政は即日出家、
翌20日、時政は伊豆北条へ追放され、執権の座は義時に移ったとあります。
そして評議により、京に在る平賀朝雅を在京御家人によって誅殺する事も決定。
#鎌倉殿の13人
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26日、後鳥羽上皇の仙洞に伺候していた平賀朝雅は、自分への討手が来ていることを知らされると、驚き慌てることも無く、冷静に後鳥羽上皇に関東より討伐の者たちが来ていることして暇を賜り、退出し宿舎の六角東洞院で鎌倉方の軍兵と激しく戦い、
#鎌倉殿の13人
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敗勢となった朝雅は松坂あたりまで退くもそこで討たれたとされます。ドラマの描写とは異なり、豪胆で勇猛な武士であったという印象が描かれていますね
#鎌倉殿の13人
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細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(講談社選書メチエ)にある、細川先生の北条義時評。細川先生は中世史研究者界隈でも、最も義時に同情的な方だと思う。
#鎌倉殿の13人
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#戦国時代ファン面倒臭い仕草
実は頑なに「真田幸村」とか「北条早雲」とか言い続けてる人のほうが面倒くさい。
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ナチスが政権を取る以前、その極端な反ユダヤ主義の主張にも関わらず、一部世俗的ユダヤ人の中にも彼らを支持する人々が居たが、それはナチスの反ユダヤ主義があくまで「ユダヤ教信仰」についての主張であるとの理解からのもので、まさか遺伝学的なものだとは想像もしていなかったという面もあったとか
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島津氏自体はそもそもが摂関家の職員だった京の武士であり、中世から近世を通して見ても、むしろ文化的な資質が強い体質だったように思う。
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ここすき
執権 北条氏と鎌倉幕府
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ガンダムっておそらくファーストから基本的には「議論による合意形成とかクソ覚醒した者が人類を導く」派と「覚醒とかいいからちゃんと話し合え意思疎通くらいしろ」派の対立だと思っているのですが、#水星の魔女 は割とそれを極端に構図として描いてる気がする
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『喧嘩両成敗の誕生』は、政治、軍事、文化等の経過を追った「通史」ではなく、中世という時代のバックグラウンドを描いた本であり、戦国大名というものが、どんな人々を統率していたのか、しなければ成らなかったのかを表している本です。ホントに日本史の見方が変わりますよ
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仮にそういう事だとすれば、戦後家康が独自の「公儀」を打ち立てた事も、それについて豊臣家が表立った反対が出来なかったことも、そして豊臣家の蔵入地が概ね解体された事も、割とスムーズに理解できるようには思われますね。
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「関ヶ原」について、古典的には徳川vs豊臣、という理解がありましたが、現在では概ね、「豊臣体制」の枠内での政治闘争だった、と考えられている訳ですが、昨今では、積極的にかどうかは別として、「豊臣家は結局西軍に与してたんじゃないの?」という捉え方が徐々に広まっている感があり
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しかしそういう事だとすれば、豊臣(羽柴)宗家まで巻き込んでおきながら、勝ち筋が無いと見るや即座に東軍と勝手に和議を結んだ「総大将」毛利輝元という人物はちょっと信じられないくらいの胆力を感じますね、或いは無責任力。
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織田信長の「安土城」は、知れば知るほど要害性皆無なので、そもそもアレは「城」だったのか?という疑問すら湧いてくる。ある種の「御殿」だったと見たほうが良いんじゃないかなあ。
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ウマ娘のグラスワンダー、アニメ版からアプリ版が出た時のキャラクター印象の変化について、「ヤンデレだと思っていたら鎌倉武士だった」という言葉がかなり好き
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歴史用語の中で、例えば「悪党」や「婆娑羅」なんかをある種の反体制的集団やムーブメントと捉え、それらが時代を動かす、変化させる原動力となった、みたいな評価をされることが間々ありますが、このあたりの言葉はダイレクトに悪口、レッテルであり、言われた当人にとっては侮辱そのものであり
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もうすっかり化け物の仲間になってますね、義時
#鎌倉殿の13人
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無数の和田義盛とは(とは)
#鎌倉殿の13人
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「織田信長は商業や経済を重要視し云々」という言葉、信長を解説する時枕詞のように使われがちなのですが、例えば安土城なんて当時の流通ルートから外れた場所に作ってしまい商人もろくに立ち寄らなかったために、後から商人に強制的に滞在を命じたり「楽市楽座」で招致しようとしたりと後手後手であり
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信長が商業や経済を「軽視」していたとは言いませんが、それでも優先順位的には(他の戦国大名と同じように)「軍事」「政治」の後に来るものだったと考えたほうが良いとは思う。
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安土城という天下人の城下町にはほっといても人が集まり当然商人も集まるのでは?という疑問も有るでしょうが、昨今の研究から安土城には、信長の近習や馬廻りくらいしか集住しておらず、信長配下だけでは実は大した人口規模ではなかったようで、大きな商業的チャンスが有ったわけではない模様
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だからこそ信長は、強制滞在や楽市楽座での誘致など、権力を使って民間人を集める必要があったという事でもありますね。
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「泉親衡の乱」についての吾妻鏡の記事。
建暦3年2月15日、阿静坊安念という僧が千葉成胤の元に、源頼家の遺児千寿丸を擁した陰謀への参加を求めて来たところ、成胤がこれを北条義時に報告したことで発覚。阿静坊安念は捕縛されると陰謀の関係者を自白。 #鎌倉殿の13人
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3月8日、和田義盛は将軍・実朝に息子たちの赦免を申し出、これは受け入れられますが、翌9日、一族98人を引き連れ、甥の和田胤長の赦免を要求しますが、北条義時がこれを拒否。さらに和田胤長を縛り上げ和田氏一族の前を引き立てるという挑発を行い、義盛は面目を失ったとされ、
#鎌倉殿の13人