301
そーいえば歴史IF解釈といえば、僕は織田信忠が何故か『秋田城介』なんて割りとマイナーな官位に任じられた所から、信長は信忠を同じ大将軍でも征夷大将軍ではなく、建武政権下で「征夷大将軍と同格」とされた『鎮守府大将軍』に任官させ、足利とは別系統の「将軍家」を打ち立てようとしたと思ってる
302
北条政範の京での急死を伝える『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条。またこの事と、この直前に京で畠山重忠の嫡男・重保と牧の方の娘婿である平賀朝雅とが口論に及んだ事が、北条時政と重忠の関係を一挙に悪化させたともされます。
#鎌倉殿の13人
303
いやあ、男も女も京も鎌倉も恐ろしい
#鎌倉殿の13人
304
もう現時点での癒やしは和田さんと三善さん、あと北条時房くらいか。数少なくなってしまった
#鎌倉殿の13人
305
徳川家康と豊臣秀吉の関係性、特に秀吉晩年において、秀吉は家康を「警戒していた」というのがまあ現在も一般的な評価だと思いますが、わりと昔から一部(ひねくれた)歴オタは「警戒してるのに権威も権力もガンガン増大させてるのは変だろ」と言い続けていたなあ
306
戦国武将の「異名」は近現代に成立したものも含めて山のようにあるのだけれど、おそらく同時代でもそう呼ばれていたであろう「お館様」で即座に通じてしまう武田信玄は強い。
307
江戸幕府は商人たちからたまに「御用金」を徴収したけれど、兵隊は求めなかったなあ。
プーチン大統領、「志願兵」集めで大企業にノルマ…国営ロシア鉄道には1万人指示 : 読売新聞オンライン yomiuri.co.jp/world/20220905…
308
そうそう、よく戦国大名は「農村から兵を徴収した」と、今でも勘違いされがちなのですが(で信長が兵農分離で云々かんぬんとか)、実際には惣村にかけられた軍役で提供の求められた人材は、輸送などのための「非戦闘員」としてであり、基本的に戦国大名は「百姓」を戦力として期待していませんでした。
309
確かに日本の城郭は防御という以上に「どうすれば一番効率的に敵勢を殺せるか」という思考の集合体であり、基本「攻撃こそ最大の防御」という発想から形成されているわけであり、すなわち日本の「難攻不落の城」とは最高ランクの吸血マシーンという意味である。>RT
310
そう、松代は徳川幕府の重要拠点の一つであり、真田以前は家康に近い親族か非常に親しい譜代が任されており、そこを真田が任されたというのは将軍家からの絶大な信頼を顕していると言ってよく
twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
311
あ ん な 辛 気 臭 い 男
#鎌倉殿の13人
312
平賀朝雅が牧の方に畠山重忠を讒訴したとされる、『吾妻鏡』元久2年(1205)6月21日条
#鎌倉殿の13人
313
大竹しのぶすごいな。こんなのもう妖怪じゃないか
#鎌倉殿の13人
314
【速報】今気がついたけど今週誰も死んでない
#鎌倉殿の13人
315
あんな理知的で冷静な畠山重忠であっても、本質的には抜身の刀を隠そうともしない坂東武者である事が実に見事に演出されていたと思う #鎌倉殿の13人
316
今日は関ヶ原イブですが、石田三成は関ヶ原の首謀者とされているものの、「西軍」の挙兵からの史料を見ていくと彼はあくまで、増田長盛、長束正家、前田玄以といった大阪の「三奉行」の指示を受けて行動する立場であり、指揮命令系統で言えば三奉行の下部に位置しており、とても「首謀」とは言い難く
317
石田三成の行動は「西軍」挙兵の要素の一つではあっても、それは結果的に「西軍」が組織化される中で取り込まれていったものに過ぎなかったのではないか、と感じるのですよ。
318
で、何で石田三成が「西軍」の首謀者とされたかというと、会津征伐の段階で、家康は三成を警戒し動向を監視していたらしいのですね。で、いざ西軍挙兵となった時、家康は三成と大谷吉継が接触していたことは把握しており、そこから石田三成と大谷吉継の小規模な謀反が起きたと認識していた模様で
319
つまり、関ヶ原において、石田三成が「西軍挙兵」の首謀者だったというのは、それこそ東軍という「勝者の歴史」そのものではなかったかと考えるわけですね。
320
しかし実態としては毛利や大阪の三奉行の加担した大規模な反徳川の挙兵だったわけです。しかし「東軍」としては当初からそのような「ストーリー」で事態を理解しており、結果的に、勝利した東軍はこの認識のまま事態を処理し、この東軍の理解が「歴史認識」として定着したわけです。
321
関ヶ原は実態としては「毛利輝元の乱」だ、とわりと昔から言っていたのだけれど、ただ輝元は挙兵の時点で自身の毛利家中すら統制できておらず、非常に危うい判断だったし結果としてそれが毛利の大きな判断のブレを生んだのだけれども、それも含めて輝元は判断も存在感も軽い。
322
真面目な話、関ヶ原後の吉川広家による家康に対する弁明「輝元はバカだから安国寺恵瓊と石田三成に騙されたんです!バカだから!」を受け入れた家康も家康だけど、この弁明方針を許容した輝元も、人物として相当のものが有ったんじゃないかと感じないでもない。
323
毛利は、関ヶ原の印象と幕末の印象から、江戸時代を通じて幕府から警戒される「雄藩」だったと考えられがちなのですが、実際には江戸期を通して世間的に、幕末ギリギリの段階まで、何をやらせてもダメな「ボンクラ藩」という印象だったらしく。
324
鎌倉幕府は後醍醐天皇らによる元弘の乱で、江戸幕府は長州征伐でそれぞれ『武威』の限界が露呈した瞬間に配下勢力への統制が崩れ滅亡に至るわけで、軍事的覇権こそが存在の基盤であった辺り、実に武家政権らしいと言えます。え?室町幕府?うーん…。
325
『吾妻鏡』元久2年(1205)6月22日条、鎌倉は大変な騒動となり、畠山重忠はこのため鎌倉に駆けつけたところ、そこで初めて討伐対象が自分であることを知る、とあります。 #鎌倉殿の13人