まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(古い順)

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頼家が大江広元の邸宅で昏睡状態となった、というのは吾妻鏡ではなく『愚管抄』に出ている話ですね #鎌倉殿の13人
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実際『愚管抄』には、頼家は後継者を一幡とし、さらにその後見人を比企能員に決めたとありますね。つまり比企側には強い正当性が在った #鎌倉殿の13人
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かつての頼朝と義時の関係性が、今は義時と泰時の関係性に #鎌倉殿の13人
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あの、頼朝の冷酷さについていけなかった義時がこうなってしまうとはなあ #鎌倉殿の13人
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いやあ、心底恐ろしいドラマですわ #鎌倉殿の13人
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『愚管抄』の比企の乱が描かれた部分。『吾妻鏡』にある、比企能員が北条氏を追討しようとしたという話は、北条がクーデター的に比企氏を滅ぼした事を正当化するための捏造だった可能性が強いと考えられます #鎌倉殿の13人
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これすき #鎌倉殿の13人
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長く側近として仕えながら、実際には今ようやく、義時は源頼朝を完全に理解したということなのでしょうね。 #鎌倉殿の13人
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徳川家康がその政権を確立したのは、関ヶ原での勝利という「武威」が大きいですが、彼の政権が定着したのは、その関ヶ原から大坂の陣までおよそ14年間、日本国内の戦争、紛争がほぼ停止された、つまり「平和」を実現したことが最も大きいと考えられます。
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外国人の観察でこの家康政権のもたらした平和を「日本人自身が信じられないほどの事だった」と書いているものもありますね。そしてその平和は無論大きな歓迎をされました。だからこそ大坂の陣では、浪人以外に、「平和を壊した」大阪方に与同する勢力がほぼ皆無だったわけです。
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徳川家康が、武士の棟梁である征夷大将軍となった時、最初に行ったことは、武士ではなく百姓たちへの宣言でした。これは『農村法令』と呼ばれ、戦国期に惣村の人々が獲得した諸権利を権力として公認したものであり、つまり当時の社会の基盤的階層である百姓、農民の地位の安定を図ったわけです。
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人の業と呪いに満ちた回だった…。恐ろしい #鎌倉殿の13人
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ある意味、今までこの #鎌倉殿の13人 という物語を象徴していた善児すら、もはやこの血の狂乱についていけなくなってしまっていたのが印象的でしたね
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#鎌倉殿の13人 ちなみに『愚管抄』によると、仁田(日田)忠常は、北条義時と戦って死んだ、とあります。
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戦国期の『一向一揆』が宗教的熱狂から来る運動であり、ある種のカルト的現象だとする見方もまだまだ多いですが、実態を見るとあくまでその地域地域の中核寺院を権威とした集合に過ぎず、教義についてほぼ関係なく、何なら本願寺派同士で頻繁に争っており、宗教性を強調しすぎると解らなくなりますね
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織田信長が「反宗教」「反仏教」的だったというのは、基本的には、そうであってくれないと困るフロイスなどキリスト教宣教師の報告と、江戸期に本願寺が色々あっていわゆる「石山合戦」を護教のための英雄的行為と定義してしまった事から来る合せ技ですなー
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鎌倉武士は野蛮か、という話について、まあ「野蛮」の定義にもよるのですが、中世という世界は武士以外でも、皇族高級公家から庶民まで、物事の解決方法として暴力を選択するハードルが著しく低いので、当時の日本社会一般の感覚からすれば、武士が特段野蛮という感覚はなかったと考えられます。
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中世に一般的に見られる「紛争を暴力で解決する」という感覚について、室町期くらいから法によってそれを抑制しようという働きかけが見られ、戦国期に至って「私的な暴力の行使はダメ!絶対!」として、法と裁判での解決への誘導、すなわち「喧嘩両成敗法」が生まれるのです。
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修善寺で終・善児とは #鎌倉殿の13人
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『愚管抄』には源頼家の最期を、入浴中に襲撃され、おそらく激しく抵抗した頼家に対し、紐で首を絞めフグリを取って刺殺されたと、その凄惨な様子が描かれています。 #鎌倉殿の13人
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一方『吾妻鏡』には、元久元年(1204)七月十九日条に「昨日頼家が亡くなった、という知らせがあった。」とだけ記されており、源頼家の死去が、北条氏にとって相当に後ろ暗いものであったことが伺えます。 #鎌倉殿の13人
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多分義時の本当の闇落ちは畠山殿の…、だろうなあ #鎌倉殿の13人
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坂井孝一先生の『承久の乱』から、鎌倉将軍の文化的素養について。源実朝が「天才歌人」であったというのは、同時代ではなくあくまで近代に入ってからの「再発見」「再評価」でしか無い事には注意が必要ですね #鎌倉殿の13人
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徳川家、秀吉末年の時点で既に、家中に大名級家臣を何人も抱え、一門として秀忠、秀康がこれもまたそれぞれに軍団を率いており、その上にこの徳川の創始者と言うべき家康が君臨し統帥しているわけで、確かに石高以外でも、他家と比して懸絶した力を保持していたと思う。
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よく秀吉の死後、家康が様々な陰謀を駆使して「豊臣勢力」を追い込んでいったと考えられがちなのですが、実際には陰謀を駆使していたのは反徳川勢力の方で、家康はそれらに対処し一つ一つ潰していった事で結果的に天下の主権者になってしまった感があります。