まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(新しい順)

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この三方ヶ原の時「家康公を助けた」という伝承が三河遠江地域には山ほどあり、その殆どが「この礼として神君より○○のお墨付き、特権を許可された」という話とセットになっており、多くは江戸期に入ってそれら惣村、集団の既得権を幕府に認めさせるために作られた伝承と考えられます #どうする家康
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現在の研究では足利義昭は、この三方ヶ原合戦の時点では未だ信長との連携を守っていたと考えられています。義昭の信長からの離反はもう少し後ですね #どうする家康
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先週もちょっと言いましたが、三方ヶ原合戦は継戦が難しい夕刻から始まっているので、本格的な決戦を意図していたとは考えづらく、おそらくは何らかの遭遇戦から偶発的に起こった合戦だと考えられます #どうする家康
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戦国三傑についてドラマなどでは面白くするために色々脚色されますが、史料などを素直に読むと、信長も秀吉も家康という人物を非常に高く評価し信用しているんですね。その信頼感についての歴史の結果からの採点は別として、家康という人は多くの人にそう言った印象を持たせる人格の持ち主だったかなと
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徳川は結果として旧主であった羽柴宗家(豊臣家)を滅ぼしたために、後世において秀吉期の徳川家に対する非常に高い待遇と期待をあえて「過小評価」した面があります。で、「石田三成」が秀吉の威を借りて徳川を滅ぼそうと嫌がらせをし続けた、みたいな話に。
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なので慶長五年の「関ヶ原」において、豊臣奉行衆が「反家康」で蜂起したというのは、(そこまでの経緯や内部的事情はともかく)表面的には秀吉晩年の意図に反した行動であったといえます。
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秀吉末期の徳川家というのは、当主である家康本人が「羽柴一門」筆頭であっただけでなく、嫡男の秀忠も秀吉から完全に特別扱いされており、個人ではなく「徳川家」そのものが羽柴(豊臣)政権の柱石として秀吉から待遇されていたらしい、というのが昨今のこの時期の研究認識
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何故なら三方ヶ原が大敗であれば有るほど、その戦いに参加した徳川家臣やその子孫にとって、彼らの徳川家に対する「忠義」「武功」がより強調され、自分たちの存在価値を徳川家に対して強く主張できるからです #どうする家康
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「三方ヶ原合戦」が徳川織田連合軍の敗北だったことは間違いありませんが、これを「徳川の壊滅的大敗」としたのは後世の、特にこの戦いに参加した徳川家臣やその子孫たちの都合による脚色も大きいと、個人的には考えております #どうする家康
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三河衆の遺体がちゃんと全員武田軍の方を向いて倒れていないのはよろしくありませんな(大神君史観主義者) #どうする家康
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この時期ルイス・フロイスは「三好勢が都を信長から取り戻すだろうが彼らは反キリスト教なので我々も迫害されるだろう。なので仮にそうなったときは、(都を放棄した)信長について岐阜へ行こうと考えている」などと報告しています #どうする家康
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この時信長は畿内では、浅井朝倉、再統一三好家や本願寺といった反信長・義昭勢力が再び活性化して窮地に追い込まれ、さらに信玄の挙兵を受けて足利義昭が反信長義昭勢力に接近するなどもはや畿内の保持も困難と考えられる有様でした #どうする家康
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実は三方ヶ原合戦も昨今様々な説が出ていて、当初双方に決戦意図はなく遭遇戦のような形で衝突したのではないか、というものも #どうする家康
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この時信長は佐久間信盛を始めとして当時相当に重用し信用していたと考えられる人々を家康への援軍として送っているので、少なくとも外面的にも、信長が家康を救援する意思はかなり強かったと考えられます #どうする家康
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畿内が大変なことになってるのに「TKGRをしよう」で即座に駆けつけてくれる信長公もフットワークが軽いのか家康が大好きなのか #どうする家康
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ちなみにこの大河、ベースの史実の流れについてはおそらく、黒田基樹先生の『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』を主に参考にしている感じがしますね publications.asahi.com/ecs/detail/?it… #どうする家康
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まー今回の描写で武田義信が「こんな武田家は嫌だ父をなんとかして文明的な今川みたいにならないと」と思ったことは理解できる #どうする家康
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『甲陽軍鑑』に武田家の武士が「町人とかって武功をする人間は全員めちゃめちゃ剛力とか思いこんでるよねプゲラ」と町人の武士認識を嘲笑ってる描写があり、この大河は実にその「町人の認識」の映像化と言った観が #どうする家康
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後の秀吉との和睦の時にこの源三郎くんを人質に出そうとしたら母親の於大の方が猛反対したフラグ #どうする家康
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織田といい武田といい、家康のまわりには蛮族しかいないのか。そりゃあ家康もいつまでも今川義元を慕うわけですわ #どうする家康
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なので信玄の「西上」も、信玄の「家康だけはぜーーーーったい許さねえ!!!」という3年間溜まりに溜まった鬱憤が爆発した結果だと、これは信玄自信が表明しておりますw #どうする家康
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まあ実際には三方ヶ原まで、北条や上杉謙信と同盟したり武田と織田の婚姻を邪魔したりと信玄の神経を逆なでし続けたのが家康なんですけどねw #どうする家康
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中世、戦国期であっても、民衆と権力は基本的には対立関係・緊張関係に有ったわけではなく、一種の相互依存関係を成していた。という面はもっと認識されていいと思う。(ただし相互に信用していたわけでも何でも無く、一定の緊張関係の上の相互依存ではありますが)
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戦国期、あるいは中世を『一揆の時代』と評することがありますが、アレはつまり、『一揆』という相当に社会的・心理的・宗教的に強制力の有る結合を選択しなければならないほど、そのままでは相互不信が強かった、という事でもありまして(一揆を結んでも平気で裏切りとかありますしね)
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戦国期について、特にドラマなどで割りとありがちな捉え方の一つに、「無力な民衆たちは武士同士の争いに一方的に巻き込まれる被害者」というものがあり、そういった面も確かにあるのですが、実際にはその民衆の間で先ず紛争があり、有利な解決を期待して民衆の側が上級権力と結びつき紛争が拡大し