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江戸幕府は商人たちからたまに「御用金」を徴収したけれど、兵隊は求めなかったなあ。
プーチン大統領、「志願兵」集めで大企業にノルマ…国営ロシア鉄道には1万人指示 : 読売新聞オンライン yomiuri.co.jp/world/20220905…
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戦国武将の「異名」は近現代に成立したものも含めて山のようにあるのだけれど、おそらく同時代でもそう呼ばれていたであろう「お館様」で即座に通じてしまう武田信玄は強い。
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徳川家康と豊臣秀吉の関係性、特に秀吉晩年において、秀吉は家康を「警戒していた」というのがまあ現在も一般的な評価だと思いますが、わりと昔から一部(ひねくれた)歴オタは「警戒してるのに権威も権力もガンガン増大させてるのは変だろ」と言い続けていたなあ
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もう現時点での癒やしは和田さんと三善さん、あと北条時房くらいか。数少なくなってしまった
#鎌倉殿の13人
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いやあ、男も女も京も鎌倉も恐ろしい
#鎌倉殿の13人
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北条政範の京での急死を伝える『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条。またこの事と、この直前に京で畠山重忠の嫡男・重保と牧の方の娘婿である平賀朝雅とが口論に及んだ事が、北条時政と重忠の関係を一挙に悪化させたともされます。
#鎌倉殿の13人
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そーいえば歴史IF解釈といえば、僕は織田信忠が何故か『秋田城介』なんて割りとマイナーな官位に任じられた所から、信長は信忠を同じ大将軍でも征夷大将軍ではなく、建武政権下で「征夷大将軍と同格」とされた『鎮守府大将軍』に任官させ、足利とは別系統の「将軍家」を打ち立てようとしたと思ってる
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よく秀吉の死後、家康が様々な陰謀を駆使して「豊臣勢力」を追い込んでいったと考えられがちなのですが、実際には陰謀を駆使していたのは反徳川勢力の方で、家康はそれらに対処し一つ一つ潰していった事で結果的に天下の主権者になってしまった感があります。
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徳川家、秀吉末年の時点で既に、家中に大名級家臣を何人も抱え、一門として秀忠、秀康がこれもまたそれぞれに軍団を率いており、その上にこの徳川の創始者と言うべき家康が君臨し統帥しているわけで、確かに石高以外でも、他家と比して懸絶した力を保持していたと思う。
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坂井孝一先生の『承久の乱』から、鎌倉将軍の文化的素養について。源実朝が「天才歌人」であったというのは、同時代ではなくあくまで近代に入ってからの「再発見」「再評価」でしか無い事には注意が必要ですね #鎌倉殿の13人
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多分義時の本当の闇落ちは畠山殿の…、だろうなあ #鎌倉殿の13人
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一方『吾妻鏡』には、元久元年(1204)七月十九日条に「昨日頼家が亡くなった、という知らせがあった。」とだけ記されており、源頼家の死去が、北条氏にとって相当に後ろ暗いものであったことが伺えます。
#鎌倉殿の13人
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『愚管抄』には源頼家の最期を、入浴中に襲撃され、おそらく激しく抵抗した頼家に対し、紐で首を絞めフグリを取って刺殺されたと、その凄惨な様子が描かれています。
#鎌倉殿の13人
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修善寺で終・善児とは
#鎌倉殿の13人
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中世に一般的に見られる「紛争を暴力で解決する」という感覚について、室町期くらいから法によってそれを抑制しようという働きかけが見られ、戦国期に至って「私的な暴力の行使はダメ!絶対!」として、法と裁判での解決への誘導、すなわち「喧嘩両成敗法」が生まれるのです。
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鎌倉武士は野蛮か、という話について、まあ「野蛮」の定義にもよるのですが、中世という世界は武士以外でも、皇族高級公家から庶民まで、物事の解決方法として暴力を選択するハードルが著しく低いので、当時の日本社会一般の感覚からすれば、武士が特段野蛮という感覚はなかったと考えられます。
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織田信長が「反宗教」「反仏教」的だったというのは、基本的には、そうであってくれないと困るフロイスなどキリスト教宣教師の報告と、江戸期に本願寺が色々あっていわゆる「石山合戦」を護教のための英雄的行為と定義してしまった事から来る合せ技ですなー
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戦国期の『一向一揆』が宗教的熱狂から来る運動であり、ある種のカルト的現象だとする見方もまだまだ多いですが、実態を見るとあくまでその地域地域の中核寺院を権威とした集合に過ぎず、教義についてほぼ関係なく、何なら本願寺派同士で頻繁に争っており、宗教性を強調しすぎると解らなくなりますね
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#鎌倉殿の13人
ちなみに『愚管抄』によると、仁田(日田)忠常は、北条義時と戦って死んだ、とあります。
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ある意味、今までこの #鎌倉殿の13人 という物語を象徴していた善児すら、もはやこの血の狂乱についていけなくなってしまっていたのが印象的でしたね
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人の業と呪いに満ちた回だった…。恐ろしい
#鎌倉殿の13人
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徳川家康が、武士の棟梁である征夷大将軍となった時、最初に行ったことは、武士ではなく百姓たちへの宣言でした。これは『農村法令』と呼ばれ、戦国期に惣村の人々が獲得した諸権利を権力として公認したものであり、つまり当時の社会の基盤的階層である百姓、農民の地位の安定を図ったわけです。
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外国人の観察でこの家康政権のもたらした平和を「日本人自身が信じられないほどの事だった」と書いているものもありますね。そしてその平和は無論大きな歓迎をされました。だからこそ大坂の陣では、浪人以外に、「平和を壊した」大阪方に与同する勢力がほぼ皆無だったわけです。
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徳川家康がその政権を確立したのは、関ヶ原での勝利という「武威」が大きいですが、彼の政権が定着したのは、その関ヶ原から大坂の陣までおよそ14年間、日本国内の戦争、紛争がほぼ停止された、つまり「平和」を実現したことが最も大きいと考えられます。
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長く側近として仕えながら、実際には今ようやく、義時は源頼朝を完全に理解したということなのでしょうね。
#鎌倉殿の13人