まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(新しい順)

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ユダヤを持ち出すのは様々な意味でロマンが有るのでしょうけど、正直文献史料も伝承も無い以上、発想の飛躍に過ぎるという感が。 日本の城跡から見つかった謎の地下室 ユダヤ教の沐浴施設の可能性:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASQ9L…
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こう説明してくるかw 「鎌倉殿」次回サザエさんなら悲劇 波平&後妻がタラちゃん命狙い、サザエ&カツオが激怒追放、乳母ワカメも(デイリースポーツ) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/f2eea…
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ここにおいて北条政子が事実上の「鎌倉殿」となったわけですね #鎌倉殿の13人
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ちなみにこの義時の言葉を、を細川重男先生は、『クソ親父!オレたちを騙して、ダチを殺させたな!』(講談社選書メチエ『北条氏と鎌倉幕府』)と訳しました #鎌倉殿の13人
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畠山重忠追討から引き上げてきた北条義時は時政に「重忠の弟や親類は他所に有り、彼が率いていたのは僅か百余名でしかなく、である以上彼が謀反を企てたと言うのは虚説です。もし讒訴によって誅殺されたのなら、なんと不憫な事でしょうか。」と報告。時政は無言であったとあります #鎌倉殿の13人
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ちなみに、ここでは馬上、剣で一騎打ちをしていますが、鎌倉武士の一騎打ちに用いる武器は、実際には「弓」でした #鎌倉殿の13人
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自分が追討対象になっていることを知った忠重は、この事体から逃げず、潔く戦うことを選んだ、とされます。 #鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』元久2年(1205)6月22日条、鎌倉は大変な騒動となり、畠山重忠はこのため鎌倉に駆けつけたところ、そこで初めて討伐対象が自分であることを知る、とあります。 #鎌倉殿の13人
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鎌倉幕府は後醍醐天皇らによる元弘の乱で、江戸幕府は長州征伐でそれぞれ『武威』の限界が露呈した瞬間に配下勢力への統制が崩れ滅亡に至るわけで、軍事的覇権こそが存在の基盤であった辺り、実に武家政権らしいと言えます。え?室町幕府?うーん…。
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毛利は、関ヶ原の印象と幕末の印象から、江戸時代を通じて幕府から警戒される「雄藩」だったと考えられがちなのですが、実際には江戸期を通して世間的に、幕末ギリギリの段階まで、何をやらせてもダメな「ボンクラ藩」という印象だったらしく。
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真面目な話、関ヶ原後の吉川広家による家康に対する弁明「輝元はバカだから安国寺恵瓊と石田三成に騙されたんです!バカだから!」を受け入れた家康も家康だけど、この弁明方針を許容した輝元も、人物として相当のものが有ったんじゃないかと感じないでもない。
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関ヶ原は実態としては「毛利輝元の乱」だ、とわりと昔から言っていたのだけれど、ただ輝元は挙兵の時点で自身の毛利家中すら統制できておらず、非常に危うい判断だったし結果としてそれが毛利の大きな判断のブレを生んだのだけれども、それも含めて輝元は判断も存在感も軽い。
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つまり、関ヶ原において、石田三成が「西軍挙兵」の首謀者だったというのは、それこそ東軍という「勝者の歴史」そのものではなかったかと考えるわけですね。
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しかし実態としては毛利や大阪の三奉行の加担した大規模な反徳川の挙兵だったわけです。しかし「東軍」としては当初からそのような「ストーリー」で事態を理解しており、結果的に、勝利した東軍はこの認識のまま事態を処理し、この東軍の理解が「歴史認識」として定着したわけです。
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で、何で石田三成が「西軍」の首謀者とされたかというと、会津征伐の段階で、家康は三成を警戒し動向を監視していたらしいのですね。で、いざ西軍挙兵となった時、家康は三成と大谷吉継が接触していたことは把握しており、そこから石田三成と大谷吉継の小規模な謀反が起きたと認識していた模様で
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石田三成の行動は「西軍」挙兵の要素の一つではあっても、それは結果的に「西軍」が組織化される中で取り込まれていったものに過ぎなかったのではないか、と感じるのですよ。
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今日は関ヶ原イブですが、石田三成は関ヶ原の首謀者とされているものの、「西軍」の挙兵からの史料を見ていくと彼はあくまで、増田長盛、長束正家、前田玄以といった大阪の「三奉行」の指示を受けて行動する立場であり、指揮命令系統で言えば三奉行の下部に位置しており、とても「首謀」とは言い難く
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あんな理知的で冷静な畠山重忠であっても、本質的には抜身の刀を隠そうともしない坂東武者である事が実に見事に演出されていたと思う #鎌倉殿の13人
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【速報】今気がついたけど今週誰も死んでない #鎌倉殿の13人
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大竹しのぶすごいな。こんなのもう妖怪じゃないか #鎌倉殿の13人
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平賀朝雅が牧の方に畠山重忠を讒訴したとされる、『吾妻鏡』元久2年(1205)6月21日条 #鎌倉殿の13人
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あ ん な 辛 気 臭 い 男 #鎌倉殿の13人
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そう、松代は徳川幕府の重要拠点の一つであり、真田以前は家康に近い親族か非常に親しい譜代が任されており、そこを真田が任されたというのは将軍家からの絶大な信頼を顕していると言ってよく twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
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確かに日本の城郭は防御という以上に「どうすれば一番効率的に敵勢を殺せるか」という思考の集合体であり、基本「攻撃こそ最大の防御」という発想から形成されているわけであり、すなわち日本の「難攻不落の城」とは最高ランクの吸血マシーンという意味である。>RT
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そうそう、よく戦国大名は「農村から兵を徴収した」と、今でも勘違いされがちなのですが(で信長が兵農分離で云々かんぬんとか)、実際には惣村にかけられた軍役で提供の求められた人材は、輸送などのための「非戦闘員」としてであり、基本的に戦国大名は「百姓」を戦力として期待していませんでした。