善児が範頼を殺害したあと、目撃した少女に近づいてゆく。このとき少女が持っていたのは仏前に供える樒(しきみ)なのではないか。大姫の逝去は建久8年7月14日。頼朝が命を下し、翌日に善児が実行したとすると7月15日の盆にあたる。この盆の風習は鎌倉時代から庶民に広まったとされる。 #鎌倉殿の13人
平川唯一(さだまさしさん)が出てきたということなので、一つだけ。平川さんは「英語会話」を辞めた後も、ラジオ東京(現・TBSラジオ)や文化放送で『カムカム英語』の講師を続けた。放送終了後は自宅で英語会話教室「カムカムクラブ」を開設している。亡くなったのは1993年8月25日。 #カムカム
やはり犯行に使用された自作銃を図解してくるマスコミが出てきた。確かに調べればネットには作り方が出てくる時代。でもそれは積極的に探さなせれば目にすることはない。テレビなど誰でも触れられるメディアで略図であれ見せるものではない。取材したからといって何でも出せばいいってもんではない。
土用に土を動かすこと、穴を掘ること、つまり耕作や作事といったことは禁忌とされた。陰陽五行説において、土用は土の気が盛んになるため、動かし犯すことを忌むようになった。因みに殺生も禁忌とされていたので、義経の殺害も忌むべきことであった。 #鎌倉殿の13人
#拾われた男 最終回は泣いて、泣いて、笑って、泣いて、泣いて、泣いて。もう、どれくらい泣かされたか分からない。泣きすぎて語彙力がもうゼロ。とにかく面白かった。
今川氏真が人質交換に対して、狭い了見で使者である石川数正を斬るとか、人質を斬るといった「暗君」として描く一方、今川から家臣たちの心が離れることを食い止め、且つ氏真の面目も立つ選択を関口氏純夫婦に諭されそれを受け入れるというのも、氏真がただの暗君ではないことを示す。 #どうする家康
技術を売りたいのか、商品を売りたいのか、東大阪を売りたいのか。それによって作り方も、価格も、販売方法も変わってくる。技術を売るなら価格は下げられない。商品を売るなら中国で作ってもいい。東大阪を売るなら、みんなでスクラム組んで作るしかない。そのコンセプトすらブレている。 #舞いあがれ
「戦とは勝ってからするもの。」この言葉、家康はきっと肝に命じているよね。信玄からの学びが半端ではない。三方ヶ原の戦いがあったからこそ、その後の戦の「上手さ」に繋がってゆくのね。ただでは転ばぬ家康。 #どうする家康
虎松(のちの井伊直政)はこのとき(元亀元[1570]年)数えで10歳(永禄4[1561]年生)。2歳のとき父 直親を今川氏真に誅殺され、新野親矩に保護されるが、親矩も永禄6年の曳馬城攻めで討死。永禄11年横領を目論んだ井伊家家老の小野道好(政次)に命を狙われるが、逃れて三河の鳳来寺に入った。 #どうする家康
一太君、いい子だね。弟のための凧揚げだから、自分がまずやりたいだろうに、「舞がやろうって言ってきたのはじめてだから」って、舞ちゃんに凧揚げを任せるし、そこで怖気づきそうなのを「手伝うから」とフォローしてあげるし、気配りができる子。ただのお調子者ではない。 #舞いあがれ
美しいソプラノを聴きたいがために、少年の成長を止めるようなもの。 これは貴司君に向けての言葉でもあるが、舞ちゃんが貴司君と「親友のままでいようとする」ことにもかかっているのよね。同じでいることから、一つ前へ。 #舞いあがれ
それにしても比嘉家の現状を見る限り、賢秀の「死ぬまでお前のニーニー」というのは呪いのような言葉だな。 #ちむどんどん
賢秀はフルボトル750mlを10本呑んでいる(ランチでワイン8本のうち半分を、その後オーナーの秘蔵ワインを6本空けた)。昼の4本で昏睡期(竜星涼さんの体重は60キロ、ワインのアルコール度数を12%として、アルコール血中濃度は0.50%以上)になる量なのに、さらに6本って死に至りかねない量。 #ちむどんどん
この武志がショーンを怒るシーン。草彅さんがショーンの方を振り返ったとき「変な顔」をするので、それを見たらこういう行動をして、と子役と演技の「お約束」を作って撮影したそうです。子役に恐怖を与えないよう、怒声もアフレコしたようですよ。 #拾われた男
お田鶴は「良かれ」と思ってなすことが裏目に出てしまうのね。関口夫婦と瀬名親子の駿府脱出のときも、夫・飯尾連龍の今川と松平の懸け橋になりたいという願いも、今川家に報告することで「上手くいく」とまっすぐに思っちゃうんだよね。この真っ直ぐさがのちの悲劇を生むことにもなる。 #どうする家康
ヤフオクをたまに覗くと面白い発見がある。利休忌が近くなったので「利休像」が出品されているのだが、利休像といいながら何点か「松尾芭蕉像」が混じっている。構図は似ているが持ち物が違ったり、箱書に「ばせを像」としてあるが草書で読めなかったりと、ちょっとした間違い探しのようだ。
人の目に触れないからといって、なかった、やっていなかった、というわけではない。るいの『英語会話』を聞き続けていたことも、ジョーがトランペットを吹けるか試していたことも、それは映像として出てこなかっただけで、そこにはなんとなく感じ取れる「何か」があった。 #カムカム
慈円(演:山寺宏一)。九条兼実(演:田中直樹)の弟で、幼いときに青蓮院に入り、仁安2(1167)年天台座主・明雲について受戒。建久3(1192)年には頼朝と兼実の推挙により38歳の若さで天台座主となると、以後四度天台座主に就任。建仁3(1203)年には大僧正に任ぜられている。『愚管抄』の著者。 #鎌倉殿の13人
耳引き。紐を大きな輪にして、互いの耳にかけて引っ張り合う遊び。引きあって耳から外れたほうが負け。同様の遊びに首引きや腰引きもあった。『鳥獣人物戯画』丙巻にその様子が描かれている。 #鎌倉殿の13人
サイコパスと言う勿れ #鎌倉殿の13人
「母親の一番の不幸は息子と結婚できないこと」 あの時代のおじさんなら言いそうな妄想だけど、何でそんなところだけ時代のリアルを重視する?(いや、ただ言わせたかっただけかもしれんし、いまだに言いそうなおじさんいるけど) #ちむどんどん
ムスカ役の寺田農さんはこの公開の時に43歳。 #天空の城ラピュタ のことはほとんど覚えておらず、周りの人から言われるので「すごい作品に出てたんだなぁ。」と感じるようになった、のだとか。
家康が瀬名に断りなくお万との間に子をなしてしまう。瀬名が怒るのは、己の知らぬところで家康が子をなすこと。そんなことをされては、正妻としての立場、嫡子である信康の立場がないと。以前、オーディションをして側室を選んだ描写が、「家康のお手付き」で生きてくる。 #どうする家康
武衛は兵衛府の唐名。源頼朝が任じられていたのは右兵衛権佐(のち解任)のため、「佐殿」と呼ばれている。『吾妻鏡』の中では唐名より「武衛」と表記されている。右兵衛佐であれば唐名は「武衛将軍」。のちに斯波氏の宗家は当主が代々「左兵衛督(佐)」となるため「武衛家」と呼ばれる。#鎌倉殿の13人
舞ちゃんが以前言った「短歌にすると一瞬が永遠になる」という言葉に対する貴司君の答えが、 目を凝らす見えない星を見るように一生かけて君を知りたい なんだね。ヤダ、ここでちゃんと相聞歌が出来ちゃっているんじゃない。 #舞いあがれ