どうそく(@madanaizo)さんの人気ツイート(古い順)

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以前「映画学校〇〇は”生徒に映画の作り方を教えます!”と言いつつ、実際は「映画を作る金がないから”映画の作り方を教える”と称して、生徒をスタッフとしてこき使う場所だった」みたいなのがあるんじゃないかと不安だ…」と呟いたら、関係者から長文の反論リプライが来て「こりゃヤバいな」と思ったよ
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何がヤバイって、反論の内容が「いや、ウチはちゃんと働いた分の報酬は出してる!想像でモノを言うな!」じゃなくて、「生徒のためになってるんだ!物事は単純じゃないんだ!」だったからね。それを何度も繰り返してる。正直怖かったよ。
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うろ覚えだけど、黒沢清監督が「映画学校で出来のいい生徒がいると、つい「うちの現場に来ない?」と誘いたくなってしまうが、それは生徒を使える労働力として見る発想だから、絶対良くないんだ」みたいなこと言ってて。やっぱ大事よね。こういう「けじめ」みたいなの。
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黒沢清監督が「僕は日本映画特有のウェットで、ダラっとした描写が嫌いだけど、海外だと”日本映画のそこが良いんだよ!”という人が結構いる。そして僕の作品にも目ざとく…僕が消したつもりの…ウェットさを発見して称賛する」とボヤいてて、凄く面白かった。いやー、こういうのは絶対あんでしょうねぇ
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これと同じように…先日『ドライブ~』に関しても議論になっていたけど…「日本人からするとマッチョに見える男が、海外の人からすると繊細な男に見えて、そこが評価される」みたいな現象も多分あるんじゃないかな、という気がする。そう考えると海外で評価されることも、手放しで喜んでいいか分からん
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「海外で評価される」は「海外の人でもわかる部分が評価される」ということなのかも。で、それ自体は良くも悪くもないが、それを「だから凄い」と錯覚したら痛い目にあったり。「違う国の映画だから分からない部分もある」「同じ人間&同じ映画だから分かる部分もある」くらいの態度でいた方がいいかも
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シンゴジの米国公開時。海外のファン(GFWが好き)達が「まさに日本のゴジラ映画だ!と感じられて嬉しかった」と語ってて「へぇ」となった。日本だと「今までのゴジラと違う(初代を除く)!」という感じで語られたでしょ。「俺達の考える日本らしさと、彼等の考える日本らしさは違うんだ」と思ったよ
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黒沢監督が語る「海外の客が日本映画に求めるもの」話で、もう一つ面白いのがコレ。そして海外の客は監督の「物語の舞台は東京だけど、東京だと撮影許可が下りなかったから、千葉で撮った映画」を見て「コレが今のトーキョーか!」と満足して帰っていくらしい。それでいいのか twitter.com/madanaizo/stat…
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この「それでいいのか」は海外の客に対してではなく、東京都に言っているのだ。
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で、三島は「感動というのは現在の一瞬間に感じる雷のようなもの(必要ない)」とも言うんだけど、ここで「感動=現在」という指摘が出てくるのが面白いんだよね。みんな「感動」をいいものと思うけど、実は「感動」は客を「異世界」から「現在=現実」に引き戻すもので、寧ろ「邪魔」なんじゃないか…
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三島由紀夫は「小説は”読者をどこかへ連れていくこと”が一番重要なんだ。”どこかへ連れていく”に比べたら”読者を感動させること”は全く重要じゃない」みたいなことを言ってて。俺も映画(館)に求めるのはコレなんだよね。ツマンなくてもいいから、俺を完璧な異世界へ連れてってくれよ…みたいな。
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つまり「感動」したければ、この世界でもできるじゃないか。高校野球の決勝でも見ればいい。いや、低俗な芸術でも「感動」は出来るよ。人間なんて大したもんじゃないからな。模倣品でも、盗作でも感動は出来るんだ。でも「客をどこかへ連れていく=連れていくべき異世界を作る」は芸術しかできんのだよ
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「じゃあ、その異世界ってなんだよ?」と言われればね、やっぱ「死の世界」と思うんだ。つまり、小説家は探検家なんだ。生きてる奴より先に死の世界を冒険して、その冒険談をまとめたのが「小説」なんだ。そして読者は一時的に「死の世界」に入ることで、この「生の世界」を相対化できる…みたいなね。
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だから時々「死の国」から戻ってこれなくなって、そのまま死んじゃない文学者がいるんだ。
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まぁ、小説は兎も角。 先日『ゴッドファーザー』4K版を映画館で見たよ。俺はアレ、実に退屈な映画だと思うんだな。大して面白い映画じゃないんだ。でも最後まで見るとまた最初から見たくなる。あの感じを味わいたくなる。やっぱりそれはあの作品自体が一つの「異世界」だったからだと思うよ。
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『たわわ』的なものを、昔は気持ち悪く感じなかったけど、色んな人の呟きを読む内に気持ち悪く感じるようになった人も結構いると思うんだよ(勿論最初から嫌だった奴もいる)。つまり、見てる対象は変わらないけど、見る自分が変わったワケで。これは「教育」の結果よね。やっぱバカに出来んよ。教育。
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「ナンセンス!異世界に連れていかれることが、俺にとっての”感動”だ」という貴方に贈る、穂村弘氏の「表現には”共感=シンパシー”と”驚異=ワンダー”があり、詩や音楽の本質はワンダーだ(でも今は圧倒的にシンパシーの時代)」発言。貴方はワンダーに感動するタイプなんすよ bookshorts.jp/homurahiroshi/
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「淀川長治が優しい?あんなに怖い人はいない!」みたいな話も本当はコレで。「怖い」といってもその怖さは「性格や口が悪い」とは別で、自分の映画哲学が要請する生き方から出てくる怖さと思う。「オリバーストーン作品の切り捨て方が酷いw」も、飽く迄その要請に従った結果、出てきたものという感じ
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昔読んだ本に「ニーチェは実生活では付き合いにくい人だった。スピノザは賢者のように穏やかな人だった。でも、これは彼らが自分の哲学に忠実だった=自分の哲学が要請する生き方に従った結果で「性格がいい、悪い」とは全然違う」みたいなことが書いててさ。色んな出来事がある度に思い出すんですよね
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そこを「貶し方の激しさ、面白さ」だけ取り出して「いやぁ、淀川は怖いねぇw」とやっても全然意味がないんじゃないかな。我々が学ぶべきは「貶し方の面白さ」ではなく、その「貶し」を導き出した映画哲学の方だと思う。
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最近は黒沢清監督の聖人っぷりが話題になることが多い。実際にスゲーいい人なのだと思うが、単純な「性格がいい」とも微妙に異なる気がする。もしかしたら監督には監督の従うべき自分の映画哲学や信念があって、その哲学があの紳士的な態度を要請しているのではないか。そういう気もちょっとするのだ。
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ある本に「黒沢監督は普段穏やかなのに、ある時に「あの車が邪魔だから、移動するまで待つ」と数時間待ったことがある」という話が出ていた。監督も「今ならしない」と苦笑していたが…この辺に「いい人」と微妙に異なる(信念が要請する)何かを感じなくもない。監督は監督なりに「怖い人」な気がする
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『オタク女子が、4人で暮らしてみたら。』冒頭に「大好きな”おそ松さん”三期が制作決定。期待と不安に襲われた彼女達は”カロリーをとらないと、この事実を飲み込めない”と、肉を食い始めた」という記述があって、凄く正しいと思うんだよな。美しいものを味わうためには、それに耐えるだけの力がいるよ
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「今はそれに耐えるだけの力がないから、とりあえず肉を食って力をつける」っていうね。どうして、コレ(美しいものを味わうためには、客にも体力が必要。だから常に心身を鍛えろ。時間がない時は~という応急処置をするのだ)が指摘されないんだろう。こういう「技術」を教えて欲しい人は多いと思うよ
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味わうためにこれだけ力がいるんだから、それを「自分のもの」にするためには更に力がいる。俺は冗談で言ってるんじゃない。こういうことをちゃんと言わないと、近々『七人の侍』を見ても「作品のパワーが凄すぎて、疲れた…最後まで見れなかった…」という奴が出て来るぞ(そしてそのジャンルが滅びる