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ネガティブ・ケイパビリティというのは、世間的には個人に備わる能力としてイメージされている感じがするが、実際のところコミュニティに備わる余白とか器という方が実態に近いのではないか。曖昧なものは、自己に押し込めるというより、人とのつながりの中に置いておくというニュアンス。
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ケアについての講義をしたら、学生がリアクションペーパーでの感想で「ケアは優しさではなく、賢さから生まれる」と書いていた。けだし名言。
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「おばけなんてないさ」。最初は「みまちがえたのさ」と錯視として心理学的に対処しようとするのだが、2番では「冷蔵庫に入れる」と科学の利器を使って、物理的に対処しようとしはじめる。3番以降は「友達になる」ともはやシャーマニズム。最後はお風呂に入るのだが、これはキヨメの儀礼なのか。
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「臨床心理学1995年革命説」。信田さよ子さんの歴史観だが、大変説得力ある。その年に内面的な心の問題とされていたことの多くが、実際に生じた暴力の結果だと再定義された。阪神大震災とオウム事件が起こり、DVが言葉として流通し始め、スクールカウンセラーが始まった年のこと。心の臨界点の話。
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「会う」が制限されている昨今、ならば「会う」とは何かと思って語源を調べると「encounter」は「敵とでくわす」という意味だそう。だから人と会わなくて楽という声には一理ある。モンスターが出現しないRPGみたいなものだ。そして、敵なのに仲良くなる所に、「会う」の素晴らしさがあるのかもしれない
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「精神がなにかの都合で不幸にも平静さを失ったとして、社交と会話はそれを取り戻すもっとも強力な救済手段である」
経済学の祖アダム・スミスの言葉だが含蓄が深い。そして、「社交と会話」が不可能になったときに、それを取り戻すのにどうしたらいいのかの集積がメンタルヘルスケアの知なのだろうな
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臨床心理学って「人を知るとは何か」についての学問と思うのだけど、他者の強い部分を知っても、二人の関係は縮まらない、と個人的には思う。そうではなく、弱い部分を知ったときに、僕らはその人の心に触れたように感じる。そういう意味で、「生きづらさ」は確かに他者と繋がれる部分と思う。
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それにしても、こう次々と催しが中止されていく現実を見ると、普段の我々が日々いかに互いに接触して、影響を与えたり、与えられたりしながら暮らしていたのかがわかりますな。「社会」という当たり前すぎて見えにくいものが、実はものすごい勢いでグルングルンと人を巻き込んで動いていたのを実感。
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「実践アディクションアプローチ」の巻末対談で、信田さよ子さんが「すぐ連携連携って言うけど、専門家が自分ひとりで責任を負う覚悟があってこその連携でしょ?かまぼこ切り分けるみたいに最初から問題を仕分けるのが連携じゃないんだよ!」と絶叫してて、シビれました。。
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「苦悩している」と自覚することが、その苦悩からの解放であるというパラドックスが、心理学の大変奥深いところだ。
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サンデル「実力も運のうちー能力主義は正義なのか?」読了。能力主義の問題点を散々書いてきた上で、最後の謝辞では身の回りの人の能力を賛辞する文章が書き連ねられてるあたりに、能力主義問題の迷宮のような難しさを痛感する。
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この本に出てくる「嬉し涙は存在しない」説が面白い。嬉しいことがあると、これまで押し込めていたけど本当は悲しかった気持ちをようやく悲しめるようになるから泣く、これが嬉し涙だという説。 twitter.com/ktowhata/statu…
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うつを「心の風邪」と呼ぶのは賛否両論あるけど、本当に「心の風邪」と言えるのは「仮病」ではないか。体の症状はないけど、仕事や学校に行ける気がしないときに使う「仮病」は、心が風邪を引いてるときの症状で、休ませてあげると大体の仮病は治る。治らないときは、心が風邪どころじゃなくなってる。
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心には科学的に語れる側面と、文学的にしか語れない側面の両方がある。四六時中、文学的に生きている人はごくごく稀だろうが、「ときどき」は文学的な瞬間もあって、案外そういうものが生きることを支えているように思うのだけど。
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抜毛についての卒論が面白い。女子大生の4割が眉や髪の抜毛を経験しているという結果で、しかもそのほとんどが医療機関などにはかからない。抜毛自体が自分のストレスを自分でなんとかしようとする行為だが、それをさらに自分でなんとか治そうとする子どもたちの浮かび上がる。
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ゴールデンウィーク10連休、過剰に「居る」がある日々を前にして、みんな何を「する」かに悩まされているわけですが、これこそまさに「居るのはつらいよ」状態。したがって、覚悟を決めて、「居る」を決め込んで、贅沢な退屈を堪能するのが吉ですな。
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「認知行動療法の哲学」ついに届いた。哲学がかつて治療であり、健康法でもあったころ、人々は理性に癒やされていた。実際に行われていたストア哲学によるセルフケアと現代の認知行動療法を重ねて見る本です。ぜひご笑覧ください!
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「居場所を見つけるにはどうしたらいいか?」と取材を受けていて、多動力ならぬ「受動力」というワードが降ってきました。他人からの誘いなり、働きかけについホイホイ乗ってしまう受け身の力。友達作りとかもそうだけど、積極的に声をかけるのではなく流されることで、人はうっかり親密になってしまう
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日記をエクセルで書くか、ワードで書くかによって、自己というものの作られ方は全く違うのではないか。エクセルは自己の帳簿化を、ワードは自己の物語化を推し進める。マルクス・アウレリウスが現代に生まれていたら、自省録をエクセルで書いたのではないだろうか。
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イルツラのじんぶん大賞、感慨深いです。この本の半分は、臨床心理学を学ぶ人の多くが共有している基礎的な知で出来ていて、それが「人文」という文脈で評価されたのは嬉しい限り。これを機に「人間が生きていくこと」についての臨床心理学的人文知が多くの人に届けば幸いです。
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これは辛い。任期付雇用は本質的にすさまじい暴力なのに、手続き的に適法であることによって見えにくいものにされている。しかし、任期が切れた当事者には、その暴力性がはっきり体験されているので、それがこういう暴力的な形で噴出する。一方は適法の暴力で、もう一方は違法なのが、さらに暴力的。 twitter.com/syakusanjiki/s…
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「臨床の知」とは多分そういうことだと思うんだよな。
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心を変化させるために、心に介入すべきときと、環境に介入すべきときとあって、環境を変えないといけないときに心を変えようとすると、ひどい暴力になってしまう。その見極めができるようになるのが、心の専門家の最低限の資質と思う。実際、環境が変わるとかなりの程度、調子は良くなるものです。 twitter.com/ktowhata/statu…