オタクにとって「休日は家で1人でゲーム/読書/調べ物する」は、それを楽しみに労働に耐えている側面まである大事な予定なのだけど、1般人にとってそれは「予定が特に無い時の時間潰し」みたいな感覚なので、ナチュラルに「つまり暇なんだな」と思ってしまい、色々悲しい齟齬が生じてしまうというな。
自己肯定感の低いメンヘラや陰キャ、人間関係が「相手を信頼しようとして依存する」か「自立を目指して孤立する」の2択に陥りがちなんだよな。「素の自分は嫌われる」的な強迫観念から、心の扉を適切に開く事が出来ず極端から極端に走ってしまい、人生で何度も激しい期待と絶望を味わい続けるというな
自己肯定感が低いコミュ障がSNSやると、「みんな大好き!」「誰か遊びに行かない?」みたいなポジティブ発現は全て「自分以外かな?」と感じる1方、「こんな人間は嫌い」「面倒になってきた」みたいなネガティブ発言は全て「自分の事かな?」と感じ、気まずさが蓄積されてくというバグが起きるというな
コミュ障には2種類いて「極度の人見知り&口下手なので少しずつ打ち解けていくタイプ」と、「それを取り繕う為に初対面でも適当に明るく楽しく話せるようになったタイプ」がいるんだよな。表面上は後者の方が社会適応してるけど、表面上の取り繕いしか出来ないので、段々と人間関係が詰んでいくというな
イジメや虐待を受けた人間は、相手の顔色を伺って先回りして保険をかけるみたいな癖がつきやすいけど、傍目には「常に怯えて過剰に気を回して勝手にダメージを受ける」仕草に映るんだよな。戦争が終わっても心身に染み付いた恐怖は拭えず、自分の中だけで戦争が永遠に続いてるランボー状態だというな。
幼少期に「自分が何をやりたいか?ではなく、やらないと他人から色々言われて面倒な事になりそうだからやる」を行動原理にしてきた人間、往々にして大人になると「楽したい」以外の意思が弱く、1度でも躓いて他人から色々言われると「もういいや」と全てが面倒になる自堕落人間になりがちな気がするな
自分1人で全てを抱え込む人間は、大体はそれが非効率だと自覚はあるんだよな。その手の人間は「相手に弱みを晒す面倒/無理解/屈辱リスクを考えれば、1人で抱え込む方がマシ」という結論に至ってるので、「何で言わないの?」と言われる度に、周囲の無理解/面倒さを感じ更に抱え込むようになるというな
「大人に怒られない」ことのみを志向して幼少~思春期を人生のチュートリアルと思って過ごすと、成人期になってもチュートリアル感覚が抜けないので、結果として朧気に「自分はまだ若い」という意識を持ちながらも自分の意志や希望を持たない、リアリティを感じる機能が壊れた生命体が誕生するというな
幼少期は神童だったが段々と駄目になってくタイプの人間、往々にして小さい頃は「そうしてるのが1番楽だし期待を裏切ると面倒になるから」という理由で勉強などに励んでいたので、1旦躓くと「期待を挽回するのも期待されるのも面倒」な事を学習し、最初から期待されるのを避けて自堕落になるというな
「他人に助けを求められない」という人間は、正確には「手を貸して貰う事による人間関係のアレコレが嫌/他人を信じられない」という側面が強い気がするんだよな。他人に対する諦観や不信のあまり、助けを求めた事によって苦しむ自分の姿を予見してしまい、結果「独りで苦しむ方がマシ」になるというな
「現代文は無勉でも成績良い」人間は、往々にして「言葉を声ではなく文章から学んだ」個体なので、リアルでは相手や自分の言葉の意味に気を取られ過ぎてノンバーバル言語を見落として齟齬を起こし、それが更に文章に走らせて人間を避けさせる為、最終的には高確率で高学歴社会不適合人間になるていうな
オタク達はよく「恋愛要素を物語に入れるとつまらなくなる!」という持論を述べるけど、確かに人生において恋愛要素が1切ないオタク達のツイートは大体コンテンツ力があって面白いし、そういう人間達に恋愛要素が発生すると途端にダメな感じになる事も多いので、物凄い説得力を感じるな。
嫌な事を嫌と言わない人間は、往々にして優しいとか気が弱いというよりも「嫌と言うと色々と面倒になりそうだから我慢しておく」というタイプな事が多く、いざキレる時は何もかもが面倒でどうでもよくなってる状態なので、周囲が唖然とするような選択をアッサリして何もかもを道連れにしがちというな。
自己肯定感が低い人間は、「相手に会っても自分は相手に何らかのプラスを与えられない」という思いから、好きな人間に対して妙な遠慮や距離感調整をする傾向にあるんだよな。そして、その事に気を遣われると申し訳なさで更に「自分は何も与えられない」事実に絶望し、疎遠になるしかなくなるというな。
発達障害者が怒られても表情が変わらないというのは、恐らく小さい頃からの叱責や虐めによって「自発的に状況を変えられない」事を叩き込まれたが故の学習性無気力だと思うんだよな。それ故に人間から怒られても、諦観から脳が「その場で消費MPが最も少ない言動を取るモード」に入ってしまうというな。
「真面目で良い子」と言われがちな人間は、大体は「大人から指示/期待される様式をキッチリこなす」に特化してるので目上からは可愛がられやすいけど、定まった様式のない同格集団に放り込まれると、どうしていいか分からず借りてきた猫になるし、敬語を使う必要がない事を逆に息苦しく感じるというな
大学で落ちこぼれる人間の1番の特徴は「真面目な怠け者」で、この手の人間は怠惰だから人目のないところでは自堕落になるけど、真面目だから「ズル」はしないんだよな。それ故にヤバクなったら開き直りつつも、教授に泣き付いたりなどはしない。真面目な故に駄目人間も真面目にやってしまうというな。
ADHDの人間、常にワクワクに飢えてるから計画を建てている時は報酬の期待で最高に楽しいんだけど、いざ実行が近付くと「報酬までの労力と時間の実感」でワクワクが萎んでいってしまう事が多いような気がするな。傍目には計画段階では凄く乗り気なのに、実行段階では☓☓になる謎の生物に見えるというな
コミュ障は「空気が読めない」というよりも、「空気は読めるけどギクシャクしてしまう」人間も多いんだよな。この手のタイプは空気が読めるが故に、必死で言動の「正解」を見付けようと力んでしまう。結果、言動が何処か不自然になってしまい、それが自分でも分かるので、更にギクシャクしてくというな
自己肯定感の低い人間は「誘う」が出来なくて、常に他者に申し訳なさを抱いてるが故に「あの人間に会いたい」と思っても、即座に「でも迷惑じゃないか?」「自分なんかが…」等と延々と考え始めてしまうんだよな。結果、自分から連絡やアポといった動作を起こせず人間関係が出来ては消えてくというな。
「真面目で良い子」と呼ばれた人間は「あまり怒らない優しい子」も兼ねてる場合が多いけど、往々にして「怒らない」というよりは「怒り方が分からない」ケースが多いんだよな。怒りの念が湧いても種々の経験で身に着いた諦観で、曖昧に笑って自他を誤魔化す処世術でやり過ごす癖が出てしまうというな。
陰キャの嘆きに対して「そんなんだから陰キャなんだよ!努力しろ!」と言う人間がいるけど、陰キャと陽キャの違いは正に「自分が報われる事を信じられるか」にあると思うんだよな。良いも悪いも陰キャのネガティブは「期待したり調子にノると痛い目を見る」を学習し、その世界観に適応した結果というな
コミュ障の本当にヤバイ面は「上手く会話出来ない」ところではなく、「明確な理由なく話しかけたり目的/意味の無い会話をする事に罪悪感を抱いてしまう」面にあって、これによって仲良くなれた人間でも1度距離が出来ると関係修復が不可能になってしまい、人間関係が出来ては自然消滅してくんだよな。
思春期以降に発達障害が発覚する人間は、最初から自身の困難を認識していたわけではなく、「あれっ?みんなは普通に出来るの?知ってたの?」みたいな小さな違和感の累積により、人生に多大な支障をきたしてから気付くケースが多い気がするんだよな。当然その過程でメンタルは既に☓☓になってるもよう
「努力は必ず報われる」「善は栄え悪は滅ぶ」的な信念が強い人間ほど弱者に厳しくなるのは当然で、これは裏を返せば「報われてない人間は努力不足」「不遇な人間は悪人」という事になるんだよな。それ故にこのタイプは「強い弱者」を愛す1方、何の魅力/能力なき「弱い弱者」は容赦なく☓☓するというな