自己肯定感の低いメンヘラは「自分を出したら嫌われる」という強迫観念を抱いてるが故に、他者と深い関わりになる事を回避するけど、変に思われるのも怖いので必要時は社交的に振舞うんだよな。結果、傍目には「めっちゃフレンドリーなのにどんなに会っても距離が縮まらない謎の生物」に映るというな。
「真面目で優しい子」と称されがちな人間は、自分の意思を持つ/主張する事を禁じられてきたが故に、適応として「自発性?自分のやりたい事?」という感覚が出来上がってしまってるので、他者に「やりたい事とか目標を持て」と言われても、「無から有を作り出せ」と言われてるに等しい禅問答だというな
人間は極端に疲労してる時は感覚が鈍磨して、疲労してる事にすら気付けないから「休むと逆に疲れた」と体感してしまうけど、休日に昼寝すると起きてからも疲労や眠気を感じてしまい、結果1日を寝て過ごす事になるのは正にこの現象なんだよな。1日を無駄にしたのではなく、必要な休息をとったというな。
明らかに何かある人間に対して「大丈夫?」と聞いた時に返ってくる「大丈夫です」という言葉は、「私は貴方や周囲に対して弱みを晒せるほど安心出来てません」の言い換えなんだよな。相手や周囲に対して援助希求した際の失望/叱責/馬鹿にされるリスクが、1人で苦しむリスクより高くなってるというな。
ADHDが先延ばしにしやすいタスクは、雑に言えば「やる事の種類が多い」「時間がかかる」といった特徴があるんだよな。そして「風呂」というタスクは「脱衣→シャワー→洗体→入浴→体を拭く→着衣」とやる事が多いあげく、その時間は1切他の事が出来なくなるので、先延ばしされやすさが半端ないという
半分俺の自己分析だけど、真面目な人間の真面目さの大部分は「面倒臭い」に支えられているんだよな。規則を破るとバレた時に面倒だし、他人の言う事に異を唱えたら衝突が発生して面倒だし、会社をサボッたら翌日の仕事遅れや気不味さで面倒だし…換言すれば真面目は「最も楽でいられる」手段だというな
自己肯定感の低い人間は「悩みや苦しみは自分1人で抱え込まず周囲に相談すべき」と言っても、相談したら周囲に「面倒」と判断されて関係を切断処理される恐怖から明かせず、結果として何でも1人で抱えて勝手に不安がる1番面倒なタイプになりがちなんだよな。安心を得る為の安心がないというジレンマな
社会不適合界隈でよく話題になる「過干渉なママ」、自分の観測範囲だと小さい頃は何でも口を出してくるけど、大学受験/就活辺りから急に「そこまで責任とれない!」と怖気づき今度は自立を求める傾向ある気がするんだよな。尚、子供は突然主体性を求められて「人生いつから始まってたの?」と混乱する
1般人の言う「行けたら行く」は断る時の定型句だけど、ADHD人間達の「行けたら行く」は「行きたいけど現時点でタスクとか予定がどうなるか分からない!約束したいけど、キャンセルして迷惑かけるわけには…でも気にはかけて欲しい!」みたいなif文である事が多く、普通に来てくれることが結構あるな。
人間が強いストレスに曝されると「状況を把握して冷静に考える」というストレスに耐えるだけのMPも無くなって、「××さえすれば万事解決」「自分に全責任が」みたいな視野狭窄に陥りがちなんだよな。××な精神状態で「これしかない!」と極端な強迫観念が湧いた場合は、「1旦休め」のサインだというな。
嫌な事が起きると、それが頭に引っ掛かり続けて何も手につかなくなり、心あらずのまま逃避行動でスマホをダラダラ見てる内に深夜になって睡眠時間が削られ、次の日もそれを原因とする不調で嫌な事態を招き…みたいな負のスパイラル、深刻になるとデフォルト化して悪循環に気付く事さえ出来なくなるな。
人間、本当に厳しい環境に置かれると成長どころか鈍化していくんだよな。例えばミスや不手際の度に怒鳴られる環境では、人間の関心は上達や工夫ではなく「如何にやり過ごすか?」で埋まっていく。怯えに染まった個体は、その限界状況から長期的展望が失われ、短期的逃避に専念するようになるというな。
自己肯定感の低いコミュ障が陥りがちなのが「友達依存恐怖症」で、親しい人間が出来ると「自分は馴れ馴れしくないか?」と常に自問するようになるんだよな。相手の事は大好きだが、それ故に「相手にとって自分はそこまで…」と思い悩み、変な距離感調整かけて逆に関係をギクシャクさせてしまうというな
イジメは往々にして「集団の中で浮いてる人間を制裁する」為に行なわれるのだから、「みんな仲良く」「思い遣りを」「多少の違いは我慢」みたいな集団規範が強化される度に、逆に「あいつは我儘で思い遣りに乏しく仲良くする気がない!」として制裁=虐めを行う正当性が生まれるバグがある気がするな。
ADHDのPDCA ・Passion 計画を建てるも強烈な衝動/思い付きが身を襲う ・Delay それに注意力/集中力を奪われタスク/予定が遅れだす ・Chaos 当初の計画がメチャクチャになる ・Apocalypse 過集中を発動させて最終戦争へ
「苦労してなさそう」と言われる人間、大体は「苦労し過ぎた事によって尊厳や感情が摩耗した」パターンな気がするんだよな。幼少期から抑圧や虐めを受け過ぎた結果、「自分の意思は尊重されないし努力は報われない」を過学習し、傍目には「意思が弱く怠惰な甘やかされ人間」と映るようになったというな
「清潔感がない」に関して、風呂入れ!身嗜みに気を遣え!という人間は多いけど、「除菌洗浄したゴキブリと野生のカブトムシのどちらかを触れ」と言われたら大半の人間は後者の方を選ぶだろうし、「清潔感がない」は実質「生理的に無理」と同義語に近いことに気付いてしまったな。
ADHDの物欲/刺激欲を最も満足させる方法は、割とマジで「掃除すること」だと思っていて、自分の場合は掃除すると「失くなってなかったんだ!」「この本/ゲーム超面白い!」「そういえば持ってた!使ってみよう!」とワクワクが止まらず時間があっという間に過ぎるんだよな。尚、部屋は奇麗にならない。
自己肯定感を高める方法として「他者の幸福を無条件に祈る」というのがあって、他者の幸福を無条件に認められるようになれば、翻って「自分も無条件に幸福になっていいんだ!」と思えるようになるんだよな。極論、自己肯定とはいうけど、他人を肯定すれば、自然と自己も肯定出来るようになるというな。
現代社会、1昔前は「環境が悪いなんて甘え!努力不足!上の人間は努力したから上にいる!嫉妬で認知を歪ますな!」みたいな説教が主流だったけど、様々な研究で「人間の成功は本人努力より生まれと環境に大きく左右される」事が明らかになり、認知が歪んでいるのはどっちか?の潮目が変わりつつあるな
人見知りには2種類あって、全く知らない人間の前だと黙り込むタイプと、やけに明るく多弁になるタイプがいるんだよな。後者は1見人見知りには見えないけど、実は全然心を開かず「嫌われたり変に思われないように」と過剰に気を回し取繕ってるだけなので、いつまで経っても距離が縮まる事はないというな
自己肯定感の低いメンヘラ、常に「自分は嫌われる」という意識に苛まれており、人間との交流は「1度でもミスしたら終わり」と思っているので、少しでも不自然さが出れば「もう終わったかも!?」と絶望的な気分になってしまい、傍目には「何もないのに勝手にダメージを受ける謎の生物」に映るというな
「嫌な人間はバンバン切断していこう」という風潮は、裏を返せば「自分もバンバン切断されてく」ことを意味するので、必然的に「魅力的な人間達に人間が集中し、魅力無き人間達は孤独☓する」構造があるんだよな。その結果、魅力無き人間達が互いを「嫌だ!」と切断しあって孤立する地獄が生まれてるな
コミュ障かつ自己肯定感が低いと、相手に何か違和感や気まずさを覚えても、「相手に確認/相談したら嫌われるのでは?」という恐怖から黙って溜め込む以外の選択が取れないので、辿り着く先は「関係解消」になってしまい、更にその1応の成功体験で人間関係リセットが癖になりがちという地獄があるな。
コミュ障は大体「初対面の人間となら無難に話せるが、いくら会っても距離が縮まらず、逆に日を追う毎に気不味くなる」タイプが殆どなので、店の人間に「“いつも”ありがとうございます」と言われただけでプレッシャーを覚え、「ガッカリされたら」と妙な心理が働いて、もう来れなくなってしまうというな