ADHD人間、やる気になりさえすれば直ぐ終わるタスクであれ感情次元では「滅茶苦茶面倒臭い大ミッション」と捉えてしまうので、ダラダラしていても頭の中は義務感や焦燥感でいっぱいであり、結果として先延ばして好きな事やってたにも関わらず「何も出来なかったし色々と疲れた」的な感想が残るというな
他人に頼るのが上手な人間は、往々にして「他者が自分に好意を持ってる/尊重してくれる」という感覚があるんだよな。逆に社会不適合人間は「他者は自分を嫌ってる/尊重されない」が前提なので、他者を頼ろうと思っても罪悪感や嫌がられる/拒否される恐怖が湧き、結局は動けなくなってしまうというな。
コミュ障が脳内反省会するのは、コミュ障は会話時に脳内CPUをフル回転させて上手い正解を探したり、会話をシュミュレートしてるからと思うんだよな。結果、相手と別れた後も脳は慣性で回ってしまい「あの時はこう返すべき」「もっと上手い表現が」と正解探しやシュミュレートを続けてしまうというな。
コミュ障だからこそ「技巧的なコミュニケーションを身に着けざるを得なかった」タイプがいて、この手の人間は礼儀正しいし人当たりも良いんだけど、当人的には物凄く気を張って好人物を演じてる状態なので、人間関係する度に何かが擦り減ってくし、家ではエネルギー使い果たしてグッタリしてるというな
小さい頃は「普通にしてれば生きていける」「人生そこまで悪い事は起きない」と周囲の大人はみんな言うのに、どうして自分は色々厳しいのかずっと疑問だったけど、最近になってようやく「普通に出来なかったり、そこまで悪い事が起きた人間は大人になれず不可視化される」という事が分かってきたな。
コミュ障の陥りやすい罠として「感情を表に出さない」というのがあるんだよな。感情を出さないのは、それによる揶揄から身を守る防衛手段だけど、それを知らない人間は「自分に何を言われても動じないという事は、つまり自分の事なんかどうでもいいと思ってるんだな」と解釈し、色々厳しくなるというな
自分を含む社会不適合人間には、往々にして「n時間後にやらなきゃいけない事があるとn時間後までは他の事が何も出来なくなる」という習性があるので、たまに社会適合人間と関わると「n時間は予定空いてるから別のタスク入れよう」みたいなスケジュールの組み立て方に滅茶苦茶ビビッてしまうというな。
「自分は凄い人間だぞ!」とイキり散らす人間は自己肯定感が低いからこそ、他人にマウンティングせざるを得ない側面があるんだよな。「自分は凄くなくてもOK!」という安心感がないが故に、「自分は凄くなくてはならない!」という不安に強迫されてしまい、常にイキらずには生きれなくなってるというな
Twitterのメンヘラや限界社畜人間達は、人生に疲れ果てた結果いつも「もうスマホをダラダラ見る事しか出来ない」「生きてるだけで報酬が欲しい」みたいな事を言ってるけど、それを見る度にソシャゲのログインボーナスが如何に現代病と噛み合ってるかを思い知らされるな。ソシャゲは民衆の阿片である。
「努力は必ず報われる」「誰にでも可能性はある」みたいな言説は、格差が乏しくスタートラインのバラつきが少ない頃は純粋なエールだったけど、所得/文化/人間関係資本等の格差が激しくなり過ぎて、「貴方が不遇なのはスタートライン問題ではなく貴方の努力不足」という呪いに変わってしまったというな
オタクは往々にして生活費の浮いた分で趣味を楽しむのではなく、趣味に費やした分の浮きで生活してるので、オタクに対する「趣味の出費を抑えたらマトモな生活が出来るよ」は、1般人に対する「生活を切り詰めれば趣味を楽しめるよ」的なアドバイスとほぼ同義なトンデモ提案だというな。
コミュ障の人間は「空気読まずに失礼な言動をとる」タイプと、「自身がコミュ障の自覚があるが故に必死で空気を読んで失礼しないように常に自身の言動にセーブをかける」タイプがいるんだよな。後者は1見コミュ障には見えないが、よく聞くとやたら丁寧語かつ「すみません」と謝罪を口にしがちというな
イジメが発覚しない理由の1つに、虐められっ子の多くが「自分は苛められてない」と思う事で必死に踏み止まってる側面が考慮されてないというのがあると思うんだよな。虐められっ子が自主的にイジメを認めて口にするのは相当しんどい事であり、学校の呼び掛けや相談窓口の設置では解決不能だというな。
オタクが早口になる理由、「知識をひけらかしたい」とか「マウント取りたい」とかじゃなくて、普段色々コンテンツを摂取してインプット過剰になってるが故に「1度話し出すと次から次にアウトプットがでてきてしまう」だと思うんだよな。頭の中が情報で溢れ、自分でも止められなくなってしまうというな
自分の幸福より周囲の顔色を伺って動いてしまう人間が自己肯定感を上げるには、「好きな人間」とではなく「1緒にいる時に自分を好きでいられる人間」と付き合うのがコツなんだよな。自分より相手を優先させてしまう事が辛くても止められないのなら、そうしても後悔しない人間と接すればいいというな。
毒親育ちの人間、往々にして「他者の顔色を伺って機嫌をとる」を反射でやるから、短期的には好評価を得やすいんだけど、相手に対して心を開けないから幾ら会っても距離が縮まらないし、段々と疲れてボロが出て辛くなるしで、長期的には大変厳しい事になるし人間関係リセットに走りがちになるというな。
先延ばし癖のある人間の生活、「やらなきゃいけないタスク」自体は少ない/軽微でも、慢性的に「あれをやらないと…焦りながらも謎の重力に襲われて動けない」状態にあるので、客観的には「楽そうにしてる/暇」に見えても、主観的には「息苦しいし余裕もない」という厳しい状況下にあるというな。
自己肯定感の低いコミュ障、根底に猛烈な自己否定があるから他人に話し掛けると「迷惑かけてない?」と感じるし、他人と1緒にいると「我慢させてない?」と感じてしまうしで、結果として「自分から相手を誘う」という営為に「相手に迷惑かけたうえに我慢を要求する犯罪」的な罪悪感を抱きがちというな
自己肯定感の低さや☓☓な経験で怯えに染まってる人間にとって世界は敵地なので、人生での感心事は「如何に人間との軋轢を防いで今をやり過ごすか」になるんだけど、その防衛戦に全力を注ぎ込まなくてならない故に、陣地を拡張したり将来に備えたりする事が出来ず、日を追う毎に戦況は悪化するというな
発達障害人間の就労、少しヒアリングして分かったけど、大体みんな過去のアレコレで叱責への耐性が低いにも関わらず、その特性からケアレスミスや不要な1言等をしがちなので、業務中は常に「怒られないか?」と怯える羽目になり、結果として常時物凄いストレスに苛まされてる事が分かってきたというな
ADHDの人間、休日の1日は大体遊び/タスク/外出/家事等よりも「やらなきゃいけない/やりたいタスクを“そろそろやらないと…”と思いながら着手せずにダラダラする」時間が大半を占めている気がするな。
ADHDの休日、何もせずにゴロゴロしてるだけで1日が終わったように見えるけど、内心は常に「これをやらなきゃ…そろそろあれもやらなくちゃ…」的な葛藤に苛まされてソワソワしてるので、何もやらなかったにも関わらず1日の終わりには「今日は色々しんどかった」という感想を抱きがちというな。
陰キャ、ちょっとした事で意気を挫いたり落ち込んだりしがちだけど、「メンタルが弱い」というより「メンタルが常に弱ってる」という方が正解に近いんだよな。メンタルの総量や防御力以前に「ギリギリやってる」がデフォなので、ちょっとした事が何かのバランス崩壊や引金に即結び付いてしまうというな
「辛い時は辛いと言う」事が出来るのは強者の特権で、弱者は往々にして「ギリギリのプライドや意地で自分を踏み留めてる」「周囲に信頼出来る人間がいない」が故にSOS発信が困難になってしまうんだよな。例えば虐められっ子にとってイジメ以上に「虐められを認め告白する」がキツイ場合もあるというな
自己肯定感というのは元ネタのエリクソンによれば、幼少期に愛情を注がれる事で出来る「自分は世界にいてもいいんだ!」という基本的信頼感が基盤なので、「自分は誰かに愛されなくても大丈夫!」という自己肯定感は愛されてる人間ほど獲得出来て、必要な人間ほど獲得が難しいという地獄があるというな