陰キャの人間、往々にして「自分は嫌われる」という強迫観念を持ってるので他者と関わるだけで罪悪感を抱いてしまうんだよな。それ故に他者との何気ない会話でも感情面では「失敗は絶対に許されない試練」と化すし、終わった後は「あの時の言動は失敗だったかも」と脳内反省会が止まらなくなるというな
ASDの「いつも通り/計画通りに物事を進めたい」「想定外の事態に弱い」特性と、ADHDの「衝動性が強い」「不注意でミスを招きやすい」特性が合わさると、傍目には「平和主義者なのにトラブルメイカーで、しかも起こしたトラブルでは常に自分が1番ダメージを受ける」という謎の生物が誕生するというな。
空気は読めるのにコミュ障な人間の1番の特徴は「世界に対する罪悪感」で、この手の人間は必要な報告連絡相談でさえ「他者の時間や注意を奪ってしまう」と躊躇するし、嫌な事があっても「自分の方が変なだけかも」と抱え込むしで人間関係の軋轢が蓄積され、ある日突然全てが無理になってしまうというな
親ガチャという言葉、酷い親への呪詛という意味よりも「生まれた時の所得や遺伝に人生が大きくバインドされる」という意味合いの方が強いけど、その意味の先にあるものは不平等・再分配・格差是正の議論への発展なので、否定派はひたすら前者の性質ばかり取り沙汰するようになる霊感があるというな。
Twitterの人間、普段は陰キャよりのノリだし「キモいからといって虐めていいわけはない。キモい事は罪ではない」的なツィートが流れてくるけど、いざキモい人間が発見されると「アイツはキモいから皆で指差して笑おうぜ!」と1気に虐めッ子精神が炸裂して小中の教室になってしまうバグがあるというな。
虐められっ子には「虐められる原因」が確かにあるわけだけど、同時に「常に虐める為の落度を探られる/作られる」側面があるんだよな。虐められっ子は1度叩いてもいい存在と認識されると、如何な些細な悪徳やミスであれ「殴られても仕方ない罪」になり、クラスの黙認の下でリンチが過激化してくというな
自己肯定感を高める為には「自分は世界に存在してもいい」と思える安心感が必要であり、その安心感は他者に許容される事で育まれるんだけど、自己肯定感高い人間は積極的に自己開示し許容を得られる1方、自己肯定感低い人間は当然に自己開示出来ず、資本と同様に格差がドンドン開く構造があるというな
実は自己肯定感も実家の太さに左右される性質があって、国立青少年教育振興機構「青少年の体験活動等に関する実態調査」にて、自己肯定感は勿論として正義感や自立的行動習慣も世帯収入にバインドされてる事が明らかになったんだよな。つまり人間性なるものも「親ガチャ」からは逃れられないというな。
発達障害人間、往々にして叱責され過ぎているが故に報連相が出来なくなっているんだよな。良いも悪いも「ミスは駄目」という思いが強過ぎて、業務上必要な報連相でさえ「もし自分の勘違いだったら…」と不安と罪悪感に病んで、結局は自己判断で進めて叱責され、更に報連相が苦手になってしまうというな
叱責に弱い人間、往々にして怒られ過ぎてトラウマ化してるが故に、他者の不機嫌/悪意に敏感になって大袈裟に反応してしまったり、怒られると頭がパニクッて何も言えなくなったりしてしまうんだけど、傍目には「甘やかされてきたから耐性がない」と思われて更に厳しくされてしまう地獄があるというな。
発達障害人間の生き辛さの1つに「症状をやる気や誠意のなさと誤解される」というのがあるんだよな。例えば「大事な物は失くさない」「相手を大切に思ってるなら遅れない」等は真実であり、それでも尚やってしまうから「障害」なんだけど、相手からはどうしても「熱意なき人間」に見えてしまうというな
整理整頓が苦手なADHD、往々にして大事なモノは「大事なモノだから失くさないようにキチンと保管しよう」という発想で普段からは思いもよらない変な所に閉まって失くしてしまうし、手元に置くものでも衝動的に動き回って普段からは思いもよらない場所に置いて失くしてしまう悲しい生態があるというな。
陰キャは嫌なことがあってもその場で感情を表に出さなかったり、他者に言わずに抱え込むので嫌な思い出が自分の中で消化出来ず、心にいつまでも引っ掛かりがちなんだよな。結果、たまによく吐き戻しのように過去の嫌な記憶が突然脳内再生されてしまい、思わず叫びたくなる症状に悩みがちになるというな
ADHD人間が「タスク遂行中だけど直ぐ終わりそうな別のタスクを先にやろう」という発想で遂行中のタスクに保留をかけた結果、次々に気になるタスクが湧いてきて、もはや最初は何をする気だったか忘れてしまう現象、個人的には「インターネットで調べ物をするとタブ数が無限に増える法則」と呼んでるな。
先延ばし癖のある人間には「嫌なタスクへの着手が難しい」タイプと、「何か気なるタスクがあるとそれを終えるまで何も手につかなくなる」タイプの2種類いるんだけど、その2つが合わさると「嫌なタスクを先延ばしにするも、それが頭に引っ掛かり続けて永遠に何も出来なくなる」生物が誕生するというな。
ADHD人間にありがちな「手遅れになってる可能性が怖過ぎて確認が出来なくなる」現象、焦燥感や罪悪感はあるんだけど、だからこそ心身が重く動けけなくなってしまうので、実際に「もう間に合わないことが確定/締切を過ぎる」と悲嘆すると同時に心身が1気に軽くなり、何処かホッとしてしまうというな。
「初対面の相手とも話せる陰キャ」と「初対面の相手とは話せない陰キャ」は、実は前者の方が深刻なコミュ障なんだよな。後者は単なる人見知りなので逢瀬を重ねれば徐々に打ち解けられるけど、前者は「心を開けないが故に表面的振舞いは上手くなった」タイプなので何回会っても距離が縮まらないというな
自己肯定感の低い人間は「誘う」が出来なくて、常に他者に申し訳なさを抱いてるが故に「あの人間に会いたい」と思っても、即座に「でも迷惑じゃないか?」「自分なんかが…」等と延々と考え始めてしまうんだよな。結果、自分から連絡やアポといった動作を起こせず人間関係が出来ては消えてくというな。
ADHD人間、報酬系が「遠い未来の報酬には反応しにくい」1方で、「即座に貰えそうな報酬には強く反応する」傾向があるので、何かを先延ばしにしてる時にリアルタイムで無限に新刺激=報酬が得られるTwitterをやると、脳内優先度が完全にTwitter>>>>必須タスクになって止められなくなってしまうというな。
コミュ力が高い人間の最大の特徴は「ネタが豊富」でも「喋り方/相槌が上手い」でもなく、「相手の話したいこと・聞きたいことを察せられる」ことなんだよな。このスキルが無いと如何にネタや喋りが上手くなっても、「得意ジャンルの時だけ饒舌になるオタク」以上には決してなれない悲劇があるというな
人間不信に陥った人間は「嫌われる」よりも「優しくされる」方が居心地が悪くなってしまうんだよな。優しくされても「自分は何も見返りを与えられない」という罪悪感に加え、「何か裏がある?」「やがて失望される」という不安が渦巻き、むしろ他者から疎まれる方が落ち着くようになってしまうというな
メンヘラ特有の「優しくされると逆に落ち着かない」現象は認知不協和で説明出来るんだよな。つまり「自分は蔑まれる人間である」という自己認知と現実が1致せず気持ち悪くなってしまい、更に認知が強固だと「敢えて自分から嫌われにいく」ことで現実の方を自己認知に合わせようとしてしまうというな。
メンタルが強い人間って「自己肯定感が高く何を言われても動じない」タイプと、「他者から殴られ過ぎて痛覚が摩耗してる」タイプがいて、後者はメンタルが半ばゾンビ化してて悪態や軽視でしっかりダメージを受けても「もうドン底でそれ以上下がらない」が故に、周囲にはノーダメのように見えるというな
メンタルが悪い時って、とにかく即時的な達成/充実/高揚感を求めてアレコレしてしまうけど、メンタルが悪いので当然に成果は芳しくなくなるんだよな。これが所謂「何をやっても駄目な時」の正体なので、そういう時は「成果を出さなきゃ!」という強迫観念が薄くなるまで心身を休ませるのが吉というな。
コミュ障のアキレス腱は「穏やかな拒否」が出来ない事で、納得出来ない事でも「自分が変なだけかも」「自分さえ我慢すれば…」と抑えてモヤッてしまう。結果、モヤモヤが限界超える人間関係リセットボタンが自動的にonになり「突然凄くブチ切れる」or「黙って全逃げFO」という行動に出てしまうというな